鴉天狗の少年―――凛之助(りんのすけ)は妖狐である白斗を兄として深く慕っている。
 すでに齢三百を越え、それなりの通力をその身に備えた凛之助ではあったが、 七百年以上の時を生きる白斗に比べてはまだまだ半人前の妖であった。 広大な森を治める程の力はなく、得意とする幻術も白斗には難なく見破られてしまう。 その度に凛之助は悔しさと情けなさが交差する複雑に思いに駆られるが、 己では太刀打ちすら出来ない存在がある事を喜ばしくも思っていた。
 訳あって、白斗と凛之助は同様の師を持つ間柄だ。
 妖狐として生まれた白斗は、備え持った力が幼い頃から強かった。 故にその力を持て余す事が多く、幼い白斗は日々頭を悩ませていた。生まれつき強い力を持つ者は存在自体が稀だ。 対等といえる者は自然と限られてくる。力を持て余しているとなれば尚更他の者は寄り付かない。 その為、力を制御し上手く発揮出来るようにと、 そう教えを説いた人物こそ彼ら二人が師と仰ぐ彼の人である。
 凛之助の場合はこれよりなお特殊で、彼の人は迷い鴉となった凛之助を引き取り、妖の世を生き抜く術を与えるために弟子としたのだ。
 修行を行った年月はまるで違う白斗と凛之助だが付き合いは深く、種族は違えど実の兄弟のように育った仲である。 師を仰ぐ事で生じる苦楽を共にし、得たのは何物にも代え難い親愛の情だ。 なまじ兄弟子としてその背を追っていた事もあり、凛之助の白斗に対する情は言葉では言い表せない程に深い。
「―――勝負あり」
 たん、と踏み込むと同時に白斗は獣特有の素早さで凛之助の背後を取り、二本の指で彼の首筋を捉えた。 すぅ、と伸ばされた指が直接肌に触れ、爪が僅かに食い込む。鋭い声は終わりを告げた。
 急所をいとも容易く捉えられた凛之助は身を固くし、短く息を飲んだ。
 白斗の爪は、人型であっても獣のそれと同じ。獲物を捕え、その肉を引き裂く為にあるものだ。 凛之助は、自身が追い詰められた獲物と同じ状況である事に内心冷たい汗を流した。爪が押し当てられた首筋が緊張でちりちりと焼かれ、どうする事も出来ない。
「凛、君はとっさの判断が遅い。まだまだ修行不足だね」
「……敵わんなぁ、白兄には」
「そりゃあね、一応僕は君よりも長く生きているから」
 「負けられないよ」と白斗が柔らかに零した瞬間、 皮膚に食い込む爪先が離れ同時に身を焦がす緊張から解放される。凛之助の口から深く長い溜息が漏れた。
 彼ら二人は、今まさに体術の訓練をしている最中であった。 とは言っても、本来ならば彼らのように通力の強い妖に体術など必要ない。 鍛えるべきは己の精神と、会得した術の精度を磨く事である。
 言うなれば、これは彼らにとっての遊びの一種。暇潰し、もしくは気まぐれに行う遊戯のようなものなのだ。 しかし、二人が手を抜く事は決して許されない。また、白斗と凛之助の両人にも手を抜こうなどといった考えはこれっぽっちもないのである。
 己の通力に頼る事なかれ。
 それが師の説いた教えの一つであった。彼ら二人の師は、無闇に通力を用いる事は悪しき事だと言う。 必要となるべき時にまで力を備え、精神力を鍛える事こそが己の強さになるのだと彼は言うのだ。 そして、体術は直接的に身体を鍛え上げ、集中力をより一層強くするためのものである、とも説いた。
 相対する者を観察し、その動きの一歩先を読む。同時に、相手を打ち負かす為に必要な最小限の力をここぞという時に 発揮する。大振りで無骨な力は、それだけで隙を生み足を引っ張る。
 師に賛同したからこそ教えを忠実に守り、それを実行に移す二人は実に優秀な弟子なのである。
「また白斗様の勝ちなの?」
「凛ちゃんまた負けちゃったー?」
 双子の幼女達がからからと声を上げ、楽しげに笑った。幼子の言葉は、時として残酷なものだ。 右京と左京の無邪気な姿に凛之助はがくりと肩を落とし、唇を尖らせ不貞腐れた顔を隠すことなくその場に座り込む。
 その様がどうにも可笑しく、白斗は口元に薄っすらと笑みを浮かべ凛之助と視線を合わせた。
 すっと腰を屈め、白斗はわざとらしくにっこりと微笑んでみせる。 すると、澄んだ紫水晶の瞳は居心地悪そうに逸らされ、そっぽを向く。まるで拗ねた幼子の仕草と全く同じである。
「ほーら、凛。そう拗ねてないで、さっさと立ちなよ」
 笑いを堪えた白斗は僅かに乱れた髪を手櫛で直した。 薄茶色の髪を白い結い紐で丁寧に纏め、さっと紐を結び直す。細い髪はさらりと彼の肩に流れた。
「凛?」
「……どうせわいは兄弟子から一本も取れへん弟弟子なんや」
「あのねぇ、凛。僕は君よりずっと長く生きているんだから、仕方ないでしょう?」
「わいの考えが甘かったんですっ。……白兄のあほぉ」
 凛之助は完全に拗ねてしまったようだ。丸めた膝の間に顔を埋め、そのまま沈黙してしまった。
 少し苛め過ぎたか、と白斗は反省する。修行に付き合ってほしいと凛之助に頼まれたのはいいが、 完膚なきまでに叩きのめしたせいで落ち込まれては白斗も困る。 しかし、手加減をしようにも凛之助自身がそれを嫌がるのだ。これではどう転んでも先に進めない。 本気で相手をすれば、年齢に何百年という差のある白斗の実力が圧倒的に上である。
 凛之助とて、決して実力がないというわけではない。 飲み込みの速さは白斗ですら舌を巻く事があり、後の成長が実に楽しみな自慢の弟弟子だ。 しかし、肝心の凛之助には一つ、大きな問題があった。
 本来ならば師の元で修行を行っているはずの凛之助は、何よりも修行が嫌いな事で有名である。 師の教えは守るが、好奇心旺盛な凛之助は修行に時間を縛られる事が耐えられないそうだ。
「でも凛、どうしていきなり僕と手合わせを? 先生に叱られて、逃げ出してきたの?」
「………師匠が、」
「先生が? 何か言っていたの?」
「白兄から一本取るまで、帰ってくるな……って。それが一番効く修行だろう、って。……師匠は、鬼や」
「……またあの方は無茶苦茶な」
 白斗の口元が自然と引き攣る。あの師が何を思って凛之助を自分の元へ寄越したのか、 まったく意図が掴めない。しかし、師がやりそうなことではあった。
「先生のことだからそのうち忘れているとは思うけど……ここに居候する気でいるでしょ、凛」
「もちろんやっ。………白兄、ええやろ?」
「良いも何も、最初からそのつもりでいたんでしょ。今更何言ってるのさ」
「さっすが白兄! おおきに!」
 勢いよく顔を上げ、にかっ、と歯を見せ笑う凛之助の長所は立ち直りが人一倍早いところだ。
 凛之助はさっと立ち上がり服に付着した砂を払う。その際に姿を潜めていた漆黒の翼を大きく広げ、 そのままぐっと伸びをした。それは、上向きになった彼の機嫌をそっくりそのまま表しているかのようでもあった。 深みのある色合いをした翼が緩やかに羽ばたく。
 僅かに風が巻き起こり、凛之助が首から下げたいくつもの数珠はじゃらじゃらと音を立て揺れる。 穏やかに頬を撫でる風が感性を擽ったらしく、右京と左京が再び声を上げ笑った。
「まったく、本当に調子が良いんだから……」
 白斗が途端に機嫌の良くなった弟弟子に苦笑を零していると、 低い位置から「白斗様?」、「遊んできてもいい?」とよく似た声が左右で響く。 その鈴のように軽やかな声色は白斗の腰よりも低い位置から聞こえてきた。
 白斗は赤眼で声の在り処を辿る。 すると、彼の足元に期待に満ちた瞳を輝かせる巫女服姿の幼女達が揃って首を傾げていた。
「右京、左京。いいよ、行っておいで。けど、森から出てはいけないからね」
「はい、白斗様!」
「いってきまーす、白斗様!」
 無邪気に笑い合いながら、二人の幼女が森の奥へと駆けて行く。
 白斗同様、狐の血が色濃く流れる彼女らは非常に身軽だ。踊るように小さな体躯を弾ませ、あっと言う間にどこかへと姿を消してしまう。 翼を収めつつ、二人の背を見送った凛之助は「元気やなぁ……」、と小さく呟き苦笑を零した。
 その呟きに「凛も負けないぐらいに騒がしいけどね」と、皮肉混じりに返し白斗も笑みを浮かべる。
「白兄、それ、ちょいばかし失礼やで?」
「そう? 僕は本当の事を言ったまでだよ。凛の気のせいじゃないかな」
「……白兄のそういうとこ、師匠そっくりや」


   □     ■     □     ■     □


 憎い。
 大地に染み入った醜い血の跡が声なき声で騒ぎ立てているようであった。それは断末魔のように響いたかと思えば、 地を這うように低い怨嗟の囁きとなって風に混ざり、じとりと肌を舐める。それは不快感に満ちた生温い感触であった。
 憎い。憎くて堪らぬ。
 止む事を知らない怨恨の声は大地に、風に、空に霧散する。互いに響き合い、 決して忘れてはならぬ思いを確かめ合う。それは最早、執念の塊と言えた。
「……何故、俺を生み出した」
 静寂という闇に包まれた場所に男は一人佇んでいた。零れた声に感情の起伏はなく、 あるとすれば大きな諦めの色が淡く滲んでいるのみであった。 闇にも溶ける男の声色は生温い風に触れ、誰に届く事もなく散っていく。
 つい、と男の爪先が一歩先に踏み出す。足音はない。
「俺は、何故」
 生み出されねばならなかったのか。
 問う声に返る言葉はなかった。当然の事だ。ふっ、と男の口元が自嘲気味に歪み、 深い吐息が零れ出す。進み始めた足は、すぐにその動きを止めた。
 男の前に、刀があった。刃はぼろぼろに崩れ、刀身自体にも亀裂の走った代物である。 物は比較的新しいようにも見えるが、二度と使い物にはならぬだろう。今にも折れてしまいそうなそれは、あまりにも脆い。
 地に転がるのは、何もその一本の刀だけではなかった。刀身を失くし柄だけの姿となった、元は刀であったもの。 砕けた鞘の破片や、使われた形跡すらない小奇麗な抜き身の小太刀。かと思えば、赤黒く乾いた血液に塗れた古い刀もあった。 そして、その隣には打ち崩れたようにひっそりと佇む鎧の亡骸までもが転がっている。
 男の瞳がそれらを捉えた瞬間、表情が歪む。悲痛さと、激しい怒りを湛えた瞳を隠す事もなく見開き、 色の悪い唇へ歯を立てる。皮膚はぷつりと裂け、鉄臭い血が男の唇を湿らせた。
 腹の奥底から怒りが沸き上がってくる。まるで、ぐつぐつと煮え立つ湯のようだ。 浮いては弾ける気泡の如く、治まる事はない。今更、抑える事も必要ない。
 憎い。
 風に乗り、再び怨嗟の声が響く。男はそれに同意するように、小さく頷いてみせた。
「あぁ………そうだな。理解している」
 応じる男の声に微かな慈愛が滲む。満ち足りた憎悪は、不思議と男の高ぶった神経を和ませた。 それは安堵にも近い感情であった。傍にあるだけで安心出来る。 不安など感じるはずもない。恐れるものなどありはしない。
 そうして男は、寂しげに瞳を伏せ吐息と共に囁いた。
「……俺は、この世に生まれたくはなかった」