妖の中でも殊更長命な種は天空を統べる龍の一族である。
 その個体数は他種と比べ圧倒的に少ない。しかし、彼らは個体数を補うかのように、圧倒的とも言える長寿を得ていた。 目も眩む長い時間の中、地上の生物とは全く異なる理で生きる者達こそが龍と呼ばれる種族である。
 悠久の時を生きる彼らは天空での生活を主にしていた。龍は水であり風であり、 自由そのものである。何物にも縛られる事のない卓越した存在である。
 あらゆる魑魅魍魎の中で長命である龍達は、その存在そのものが独立していた。
 誇り高き生を謳歌する彼らはその頂点に一族の長を置き、またその下には四つの大きな役所を担う龍が存在している。 その位を司る龍達は四大龍王として長と共に一族を率い、繁栄の道を定める神聖なる存在だ。 一族の誇りを背負い、それを己の誇りとする。全てはただ、一族の為に。
 龍王とは、圧し掛かるその重圧を長共々引き受ける最高位の者達であった。
 四大龍王の一役職を担い、その中でも闘神の位を与えられた 櫂夜(とうや) はその目をゆるりと閉じ、 切り立った絶壁に腰掛けていた。その下を見下ろすと、荒れた波がしきりに岩場で弾けている。潮の匂いは強い。
「――――またか」
 ぱち、と開いた櫂夜の目が疲労に歪む。目の下に薄っすらと広がる隈は更に彼の不調をはっきりと物語っていた。
 櫂夜は一度舌打ちをし、ざっと音を立て立ち上がった。吹き荒れる風が彼の着流しを揺らし、 漆黒の布をはためかせる。櫂夜を表す色は、深く濃い闇色であった。
 背を流れる艶やかな長髪は深みのある黒色。そして纏う着流しもまた黒く、彼はその身に闇色を背負う。 着物の裾には金糸で華やかな菊模様が施してあり、我こそはと咲き誇る菊の花が漆黒の中で艶やかに浮かび上がっている。
 しかし、唯一櫂夜の瞳だけは鮮やかな青色であった。
 海原の奥底に流れるどこまでも澄んだ深い青。 美しく、そして強い意志が秘められた青の瞳は何者にも屈しない。確かな疲労を滲ませながらも、 櫂夜の双眸は猛々しい色を湛えたままである。爛々と灯る光は、同じく真っ青な海面を見つめている。
「櫂夜様!」
 そこに、慌ただしい呼び声が響く。
 櫂夜の耳へ届いた音は、声変わりを終えたばかりのような溌剌とした少年のものだった。 闘神の名を叫んだ彼の声は、よく耳を澄ませば微かに震えている。
「……陽炎(かげろう)
「こんな場所で何やってんですかぃ? 疾風(はやて)様が探してますぜ」
 焦げ茶の髪を獅子のように逆立て、 赤の派手な着物をだらしなく着崩した少年が呆れた様子で言った。彼のその目は珍しい黄金色だ。
 気だるげに櫂夜が振り返る。その拍子に腰から提げた漆黒の鞘がかちりと鳴った。 鞘だけに限らず、櫂夜の手に丁度良く収まる柄も同様に黒いその刀は彼が闘神たる最もな理由の一つである。
 闘神。
 それは、龍族において最強の武を保持する者にのみ与えられる龍王の位だ。武具の扱いに長け、一族に仇なす者、 しいては一族を含め妖の存在を脅かす者に武力を持って制する権限を授かった闘争の象徴と言われている。 元来、気性が激しい櫂夜にとってはこれ以上なく相応しい位であった。
 武を所有する証である黒塗りの刀。それを武骨な指先で一撫でし、 櫂夜は唇の端を持ち上げ不敵な笑みを浮かべた。尊大な表情は、何故だか櫂夜によく似合う。
「ふん、お前にだって分かるだろ?」
「これ以上は体に障りまさぁ。疾風様の仰る通り、一度休んではくれませんかぃ?」
「馬鹿を言うんじゃねぇ。これは俺の仕事だ」
「けど、櫂夜様。(おぼろ)も心配してますぜ? 顔色も最悪だ」
 飄々と聞こえる言葉を選びながら、陽炎は早口になって捲し立てる。 金の瞳が中々頷こうとしない櫂夜に焦れ、急かすように揺れている様が一目で分かるほどだ。 少年の焦り具合は相当なものなのであろう。
 気遣う色をいっぱいに映す陽炎の目を見つめ、櫂夜は言葉を失う。少年の言葉は尤もなものだ。しかし、それは一瞬の出来事であった。
「口を慎め、陽炎」
 唸るように声を低め、櫂夜は言う。
「障気を消し去る事が出来るのは俺だけだ。それが、闘神としての俺の存在理由だ。 これに次期候補のお前が口出しする事は許されねぇ」
「……っ、それは!」
「今の俺はあらゆる手を尽くし瘴気を滅ぼさなきゃならねぇ。候補者のお前なら、分かるだろう? 瘴気は全てを穢す。 大地も水も空気も、全てを汚染する。俺が刀を休めるという事は、取り返しの付かない結果を生むだけだ。…無茶を言うな」
「櫂夜様…櫂夜様がそんなにぼろっぼろになる必要が本当にあるんですかぃ?」
「だから、お前は馬鹿なんだ。仮にも候補者が闘神の在り方を真っ向から否定してどうする」
 櫂夜の放つ剣呑な雰囲気の中にたった一瞬、凪いだ空気が顔を覗かせる。 そこにある青い瞳はいつになく穏やかで、陽炎の胸がざわざわと大きく騒ぎ立てた。
「俺はもう行く。南方にまた障気が発生しやがった。疾風には、お前から伝えとけ」
 焦りと、そして一向に拭われない疲労を含んだ物言いに陽炎の顔は悲しげに歪む。
 出来る事ならば、その漆黒の背に追い縋り意地にでも引き止めたい。しかし、それは許されない事である。 それは、闘神として存在する櫂夜を侮辱する事も同じだ。陽炎は櫂夜の誇りを侮辱する者が何よりも許せない。 たとえ、それが己自身であろうとも決して許してはならないのだ。
 櫂夜の目が陽炎から逸らされ、再び岩壁を打ち付ける荒々しい水面を見る。 闘神の背を見つめる事となった陽炎は、諦めるしかなかった。彼の背は出立の準備を終えていた。
「なんで……そうまでして刀を握るんでさぁ」
「あ? お前、何言ってんだ」
「闘神としての役割だからですか。それとも俺達の、龍族の繁栄に関わるからですかぃ。 そうやって自分を追い込んでまで櫂夜様が刀を握る理由……俺、分かんねぇよ」
「だから、お前は何を言ってんだ」
 思わず零れた呟きに、櫂夜はさも当然とばかりに鼻で笑い青い目に苛烈な光を灯す。
「一族なんざ関係ねぇ。俺は俺の為に刀を握る。それだけだ」
 その言葉を皮切りに闘神が一歩を踏み出した。 断崖絶壁の上、何気ない足取りはすいすいと進みながら崖の一番端にまで辿り着く。 塩辛い飛沫が櫂夜の着流しの裾を濡らした。
 そうして、唐突に周囲の空気が爆ぜる。
 風が獣のように唸り、突風は叩き付けるように辺りへ吹き荒れる。 全てを薙ぎ倒す勢いで吹き付ける風に、陽炎は両腕で顔を覆った。体ごとどこかへ持っていかれそうな風である。 その凄まじい風圧に膝が崩れ落ちそうだ。
「櫂夜様……っ!」
 陽炎が叫びを上げた瞬間、櫂夜の姿は絶壁の下へ吸い込まれるように消えていた。
 身を乗り出し、飛沫を上げる海面を見下ろす。波によって尖れた岩が露出するそこに闘神の姿はなかった。 きゅっ、と眉間に皺を寄せ陽炎は遥か水平へと広がる北海に視線を這わせる。 彼の金目には櫂夜の気性とよく似た海の様子が映るばかりであった。
 ふと、陽炎の視界の端に鮮やかな青が飛び込んだ。
 それは力強く空中を泳ぎ、天高く飛翔する。蛇のように長く、 それでいて巨大な体躯を群青の鱗で覆われたそれに、陽炎は心細い呟きを吐露する。
「どうして……無茶ばっかりするんでさぁ、櫂夜様」
 青の鱗を持つ闘神は、やがて空高く舞い上がり雲間へと姿を消し去った。


   □     ■     □     ■     □


 剥き出しの大地に乾いた風が吹いた。
 砂塵が舞い、辺りは霞がかったように視界が閉ざされる。西の荒野は乾いた場所だ。 湿り気のない乾き切った砂は容易くつむじ風に巻き上げられる。 乾燥した夜空にぽつりと浮かぶ月だけが、異様なまでに澄んでいた。
「―――枷月(かげつ)
 踏み出した華奢な足が小石を弾く。
「枷月。一体どうしたと言うの。こんなこと、生まれて初めてよ」
 その声は転がる鈴の如く、汚れを知らない無垢な音色の証だった。 凛と澄み渡る煌きを秘めたその声は彼女の小さな唇から紡がれる。剥き出しの大地には全く似合わない音であった。
 その声色は戸惑い、それを隠せずに震えている。声の主は自らの腕で肩を抱き、ぎゅっと目を閉じた。 何かを抑え付けるように。押し込めるように、力を加える。そうでもしなければ体までもが震え出しそうで、恐ろしかった。
 彼女の不安を煽るかのように再び砂塵が舞う。 ざわついた砂粒の擦れる音は耳元を撫で、空気を軋ませた。土の匂いが鼻につく。
氷榁(ひむろ)
 白く、長い指が彼女の肩に触れた。
「時が来たのです。私はやっと……私自身に意味を見出せる」
「………駄目よ。だってそれは、」
 目を開けると、そこには眩しい黄金色があった。その下には星々にも似た銀色の虹彩が瞬いている。
 その輝きは夜空に浮かぶ月に酷似した。静かに大地を照らし、見つめ、残酷なまでに輝く銀の瞳はゆるりと瞬く。 風に流れる黄金色の髪に癖はなく、首筋辺りを不揃いに揺れては男の輪郭に触れていた。その他愛無い仕草に目を奪われる。
 彼は、正しく月だった。優しく、そしてどこまでも残酷に夜空を照らす。 その残酷さは月光と同様、平等に降り注ぐのだ。彼自身にすら、例外はない。
「いいえ、氷榁。これが私の役目なのです。 待つばかりの人生に訪れるかすら分からない、途方もない機会なのですよ。…私は、ずっと待っていた」
「枷月……。あなたは本当にそれを望んでいるの?」
「さぁ? どうでしょう、そんなこと考えもしませんでしたから」
「嘘吐きは嫌われるわよ。…あなたは、いつもそう」
 くす、と彼女が微笑めば男も同様に銀色を細めて微笑み返してくる。彼女は腕の力を解いた。
 月にも似た黄金色。たった一人、月からの寵愛を受けたその人の色彩は美しく、力強い。 その半面、今にも霧散してしまいそうな儚さが彼の目に浮かんでいる。男は薄い唇を重々しく開いた。
「東へ、行きましょう。彼らに伝えなければ」
 その日、西の荒野から二つの影が忽然と消えた。