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そろそろ限界が近い。
彼は一度目を閉じ、そっと瞼を引き上げた。夢であればと期待したわけではないが、 改めて現実を突き付けられたような気分になり、やはり止めておくべきだったと早々に後悔する。 辺り一帯には、薄紫色の霞が広がっていた。 まるで薄霧のようなそれは消え去る気配が一向になく、強かなまでに周囲を飲み込もうとしている。 じわりと忍び寄り、決して逃がさない。そのような意図を持っているのではと勘繰りたくなる霞であった。 「さて……。彼の到着まで、俺の体は耐え切れるだろうか」 気のせいだと思いたいが、段々と霞が濃くなっているようだ。 彼は眉を顰め、忌々しげに舌打ちをした。鉛のように重くなった体を引き摺り、背を預けた大樹に深く寄り掛かる。 立ち上がるほどの気力など、すでに残っていない。意識を保っているだけましというものだ。 視界を埋める薄い紫色の霞は、甘い毒の匂いがした。 「これは、拙いな」 鼻の良い彼には分かる。この毒は、やがて死を招く劇物だ。生物を侵食し、じわじわと体内を汚す甘い毒の匂い。 このままでは草木も、動物達も、やがてはその命の灯火を吹き消されるであろう。 彼は己の不甲斐無さを静かに嘆いた。それだけは、避けなければならないのだ。 この豊かな台地を、汚染させてはいけない。この大地には、守るべき者がいる。 地中へ根を伸ばし佇む愛しい者がいる。一つも失う訳にはいかないのだ。 「土が汚染されてしまえば………君は一溜まりもないだろうな。しかし、俺には君を救う手段がない。 俺は、この時ほどあの闘神を羨ましいと思ったことはないよ。彼なら君を、この土地を、浄化することが出来るだろうに」 それが、何よりも歯痒かった。 「君はこの森の象徴だ。だから……俺は、」 背を預ける大樹がひどく冷たい。樹皮から伝わるはずのひっそりとした温もりが感じられない。 彼は眉を顰め、自身の腕に爪を立てる。不思議と痛みはなかった。血すら滲まない。 毒の影響で指先に力が入らず、傷を付ける事すら出来ないようであった。 弱い。この体は、あまりにも脆弱過ぎる。 かたかたと細かに震えるすらりと長い指先。それは、震えというよりもむしろ痙攣に近い感覚があった。 最早自らの意思ではどうする事も出来ない体。しかし、それでも彼はたった一つの事だけを思う。 「……あぁ、けれどもう暫く辛抱してくれ。彼は、きっとやって来る」 彼の脳裏に、天を泳ぐ青い龍の姿がはっきりと浮かんだ。 それは不敵な口元に鮮やかな青の瞳が凛々しい闘神の姿であった。空を我が物顔で泳ぐ尊大な男。 あの龍は、必ずこの地を訪れる。彼の胸にはしっかりとした確信がある。 「その時は君を救う事が出来る。―――なぁ、朱姫」 艶を帯びた囁きは吐息と共に愛しい者の名を紡ぐ。 □ ■ □ ■ □ 境内の廊下にどっかりと腰を下ろし、凛之助は自慢である漆黒の翼を丁寧に繕っていた。 空を切り羽ばたく翼に、汚れの一つでもあれば飛行の邪魔になって仕方がない。 傷など持ってのほかだ。翼を持つ者にとって、それは時として命の危機にすら繋がる。 そっと指を通し、それこそ一つ一つ丁寧に翼の手入れを行う凛之助は、一度手を休め右翼のみをゆっくりと羽ばたかせる。 すでにこちらは手入れを終えている。広げた翼は日光を受け深みのある艶を帯びた。 それに満足した凛之助は休めた手を再開させる。左翼も残すは先端部分のみである。 飛行を目的としたそれはふわりと軽く、それでいてしっとりとした滑らかな手触りだ。 この手触りこそが凛之助の自慢でもあった。この艶を持つ漆黒の翼は弟子に厳しいあの師や、 兄弟子である白斗でさえも素直に褒めてくれたのだ。上物の反物よりなお滑らかで、美しい漆黒。 凛之助は自身の翼を褒められると、堪らなく嬉しく思う。 ばさっ、と両の翼を広げ風を巻き起こす。手入れの行き届いた両翼は艶やかに輝き、 それを目にした凛之助の頬が自然と緩んだ。 「ん、完璧や」 紫水晶の瞳が満足げに微笑む。 凛之助は大きな翼を折り畳むと、そのまま小さく縮ませた。 本来ならば大地に降り立った際に姿を潜めておく翼も、手入れを終えたすぐ後には外気に晒しておく。 これが翼をふわりと仕立てる最後の仕上げなのだ。 手入れを終えた凛之助はおもむろに立ち上がり、古びた廊下を静かに歩き始めた。 先程から兄弟子の姿が見えない。普段ならば、手入れの様子を面白がり横からそっと覗いてくる白斗が、 今日に限っては一度も姿を見せないのだ。凛之助は、それが不思議でならなかった。 「白兄? どこにおるん?」 裸足でひたひたと音を立て歩く。足裏から伝わる木のほんのりとした冷たさが心地良かった。 ぐるりと一周するように歩いていると、丁度良く低い階段のある境内の正面に回った。 そこには凛之助が履き捨てておいた高下駄が寂しげに転がっていた。 自らの足に馴染んだ高下駄を履き、そこから続く石畳に視線を送る。 その先に難しい顔をした白斗が風に髪を揺らし立っていた。凛之助が「白兄?」、 と疑問を抱き遠慮気味に名を呼ぶと、彼は表情を変えず凛之助へと視線を移す。 「翼の手入れはもう終わりかな?」 こく、と頷けば「それは残念」と呟き、白斗が僅かに苦笑する。 「凛の翼、触り心地が良いからね。後で触らせてくれる?」 「ええけど……白兄、どないしたん? えっらい難しい顔しとるで?」 「うん。風がね……ちょっと嫌な風が吹いたから気になったんだ。これは、」 その時、突然強い風が吹いた。水気をたっぷりと含んだ重い風であった。 木々がざわざわと揺れ、不穏な雑音を奏で始める。声高らかに囀りを響かせていた鳥達が一斉に飛び立ち、 その姿はまるで何者かの存在から逃げる弱者のようでもあった。 小さな翼を精一杯羽ばたかせ、鳥達は高い空へと昇って行った。 白斗は、真昼の真っ青な空を仰いだ。その赤い瞳が抜けるような空を射抜く。 「白兄」 「分かっている。闘神様のお出まし、ってやつだ。……でも、おかしいな。 微かにだけど気が乱れているみたいだ。まったく、あいつらしくもない」 空は穏やかだった。ただ、風だけが威力を増していく。 体に掛かる負荷が大きくなり、凛之助はぎり、と奥歯を噛み締める。白斗のように涼しい顔をしている余裕はない。 ただ、必死に耐えるだけだ。凛之助は押し潰されぬよう必死に己を保つ。 気を抜けば一瞬で体を持っていかれる。龍神の持つ気は、それほどまでに大きい。 空気が震えていた。細かくびりびりと、肌を無理矢理引っ張られるような感触が全身を這う。 「……っ!? うわっ、」 一際強い風が塊となって、地上を飲み込むように空から落ちてきた。 「―――なんだ。お前もいたのかよ、凛」 風が渦巻く中に一人の男が立っていた。尊大で、傲慢さを孕んだ声色。 その聞き慣れた低音に白斗はすぅ、と目を細める。 その男を表す色は黒であった。 身に纏う着流しは黒地で、裾には鮮やかな菊模様が金の糸で刺繍されている。 反対に帯は雪のように白く、真ん中に青い線が一本だけ走っている。長く伸ばした髪も黒く、 それは腰に届くほど真っ直ぐで癖がない。腰に差した刀も柄から鞘の先端まで、艶やかな黒塗りである。 下駄も同じように黒く艶があった。 強風に遊ばれる薄茶の髪を右手で押さえ、白斗はその男を強く睨む。 「君、一体何の用? 僕の森に勝手に入ってこないで。いつも言っているでしょう」 「ごちゃごちゃと煩いんだよ、お前は」 にやり、と唇を歪めて笑う男の、唯一その目だけが青かった。 例えるならば、それは深い海のような色合いに似ている。空よりもずっと深く、 沈んだ先に待ち構えている青い深海の色だ。見た者を魅了するその青は、彼だけが持つ絶対的な色である。 「まぁ、別にいいんだけどね。久しぶり、櫂夜」 「おう」 「龍の旦那……相変わらず派手な登場やなぁ」 「黙れ鴉。その口閉じねぇと羽毟るぞ」 「ひぃ! あかんっ、それだけは堪忍や…!」 素早く白斗の背後に隠れ、凛之助は顔だけを覗かせる。といっても、元から身の丈は凛之助の方が高く、 そのうえ高下駄を履いていることもあり、白斗の影に入りきれていなかった。 背後に回った凛之助を呆れたように見上げ、白斗は再び視線を櫂夜に戻す。瞬間、彼の赤眼が探るように細くなった。 獣特有の鋭さを光らせながら、ぐっと突き刺す赤い目。その厳しい瞳を櫂夜は何食わぬ顔で受け止める。 「櫂夜。君、随分と酷い顔をしているよ。目の下に隈が出来ている。ちゃんと睡眠は取っているのかな? いくら龍族だからって睡眠は必要でしょう。そんな様子じゃ闘神としての任務だって、」 「残念な事に、今まさに俺は任務を全うしている最中だ。睡眠を取っている暇などあると思うか?」 「何だって? ……まさか、」 「そのまさか、だ」 櫂夜が長い黒髪を煩わしげに掻き上げる。 目の下に薄っすらと出来た隈に、血色の悪い肌が彼の体調を物語っているようであった。 櫂夜に元来備わっている覇気があまり感じられないのも、おそらくはこのせいなのだろう。 しかし、それにしても櫂夜の疲労は濃い。 彼には目付け役の翡翠の龍と、他に二頭の部下がいたはずである。 白斗の記憶によれば櫂夜が行動する場合には、必ずそのうちの誰かが付き従っていたはずであった。 しかし、今回はそれがない。と言う事は、櫂夜は彼らを強引に押し切り単身で行動しているのであろう。 「……闘神である君が任務中だということは、」 「あぁ、そうだ」 低く頷く櫂夜の声に苦いものが混じる。それは、白斗も同じであった。 「まったく、嫌なものだね。…本当に、最悪な気分だ」 「白兄……」 「その最悪な気分を毎回味わっている俺の身にもなれってんだ。 ったく、全国各地に現れやがってよ、おかげで俺は寝る間も惜しんで討伐中だ。―――お前に忠告しておく」 櫂夜の声が固く張り詰める。 それはぴん、と張られた糸のように真っ直ぐで、故に今すぐにでも千切れてしまいそうな危うさを秘めていた。 普段から尊大な態度を崩さない男の変わり様に、物事の重大さを突き付けられる。 背後に隠れている凛之助の気配が緊張に満ちた。 ちりちりと肌を焼いてしまいそうな気配が白斗の首筋を無遠慮に突き刺す。 「はっきり言って今回は異常な事態だ。本当に何処にでも、場所を選ばずあれは発生している。 俺が討伐した数は今のところ六。たいぶ反応は減ったが、万が一の事も有り得る。それを忘れるな」 「櫂夜。それは、ここにでも起こりうる事、と言いたいんだね」 「あぁ」 涼やかな瞳が仄暗く光る。 「あれは―――瘴気はこの世を侵す毒そのものだ」 この世の毒。 それは悪意であり、敵意であり、殺意である。立ち込める紫煙は生き物全てに害をなし、狂わせ、やがては死を齎す。 瘴気とは万物に仇なす最上級の劇物である。 唯一、それに対抗しうる力を持つ者が龍であり、討伐する者こそが闘神の役目であった。 |