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飛び立った龍の鱗は青く、太陽の光を受けながら水晶のように輝いていた。
「……白兄」 「うん」 固く強張った凛之助の声を肩越しに聞きながら白斗は空を仰ぐ。 汚れを知らない真っ青な空を泳ぐ龍の姿はとうに消え、風に吹かれた雲だけがゆっくりと流れている。 すっ、と赤眼が動きその視線は豊かに広がる森の緑を見据えていた。 赤い視線は濃緑に覆われた広大な土地に相応しい主としての強い色が浮かんでいた。 白斗は東の森の主であり、その頂点に立つ者だ。有事の際には最善の方法で森を、 しいてはそこに暮らす生物達を守る義務がある。 のうのうと過ごしてばかりが白斗の生き方ではないのだ。上に立つ者として、動かなければないない時は必ずある。 「凛、右京と左京を探してきて。……それと、森の様子を上空から見てきてくれるかな? あの櫂夜があそこまで言うんだ、念には念を入れておかなければね。もし異常があれば僕に知らせて」 「分かった、任せとき」 「あ、そうそう。水寿にもこの事を伝えておいてくれるかな。 場合によっては彼女の手を借りる必要があるから。凛、頼んだよ」 ばさっ、と翼のはためく音がした。 白斗の視界に黒が侵食する。深く深い、闇色の翼。それは、決して冷たい奈落のものではなく、 優しく包み込まんとする腕にも似た温かな色であった。 「いってらっしゃい」 漆黒の翼を広げた凛之助は伸び伸びと空を切り、重力など感じさせない華麗な羽ばたきを披露する。 真っ白な髪が光を反射し、銀色に煌いた。空に静止した状態で「いってきまーす」と、 凛之助が上空で手を振っている。白斗が小さく手を振り返すと、彼は勢いよく翼を動かし上空から姿を消した。 凛之助を見送り、白斗は静けさに満ちた境内へゆっくりと歩を進めた。 櫂夜という強大な龍の気が一時的に溢れた場所に鳥達の気配はない。獣達の気配もない。 龍の気が薄まるまで、彼らは戻ってはこないのであろう。龍は、それほどまでに特殊な存在なのだ。 そっと、石畳の上を歩く。 ゆっくりとした足取りはどこか寂しげに見え、彼の表情も物憂げであった。 整然と敷かれた石畳に赤の視線を落とし、白斗の口がふっと重い溜息を吐き出す。 それは長く尾を引き、暫くして静寂の中に霧散した。 指先で目元の隈取りに軽く触れる。朱で描かれた痣のような模様。 そこに触れる指先が僅かに震えていて、白斗は思わず苦笑を零した。たったこれしきの事で、何と情けない。 「もう、二百年も昔のことだろうに……」 震えの止まらない指先を両手で包み込み、そっと唇に押し付ける。 触れた体温は低く、上手く力が入らないようであった。 感覚を忘れてしまいそうになる。 自身の一部が、まるで他人のものとすり替わったように錯覚する。心臓の上辺りから、ゆっくりと指先までが冷えていく。 追い詰めようと忍び寄る影が脳裏にちらつき、呼吸が乱れる。 じわり、じわりと浸食する冷気に白斗の顔色は段々と蒼白に変化していった。 噎せ返る甘い毒の香り。立ち込める紫煙。拒絶された掌。弾ける閃光。そして―――― 「白斗殿」 ふわり、と清涼な風に似た柔らかな声が降り注いだ。 「ゆっくりと息を吸ってください、白斗殿」 「あ………、」 流れる翡翠色の髪が白斗の視界を埋め、薄青の着物が靡いて見えた。 その上に重ねられた長く真っ白な羽織が風と共に踊る。耳元を掠めたのは、穏やかに凪いだ心地の良い声色。 慈愛の込められた声に白斗の意識は段々と明瞭に解れていく。 焦点のぼやけた視線を泳がせ、声の出所を探す。薄青の着物を上に辿り見つけたものは、 髪色と同じ翡翠の目であった。若草によく似た色合いだが、それよりも随分と澄みきった輝きを灯している。 邪念になど染まらない、誠実さに溢れた瞳だ。 彼は身に纏う風のように、ふわりと柔らかに微笑む。 「は、やて、さん……?」 「はい。お久しぶりでございます」 真っ青な顔をした白斗に視線を合わせ、疾風はもう一度柔らかく笑みを浮かべる。 穏やかな翡翠色の瞳は深い知性を湛え、吸い込まれそうなほどに澄んでいた。白斗は肺の奥から息を吐き出した。 「落ち着かれたようですね。お加減は如何です?」 「……悪くはないよ」 疾風と目が合った途端、全身の体温が急激に上昇する。情けない姿を見られてしまった。顔が熱く火照る。 これが櫂夜でなくて本当によかったと、白斗は密かに息を吐いた。 あの龍神にこのような失態を目撃されては、矜持を真っ二つに折られ下手をすると立ち直れなくなりそうだ。 一体何を言われるか、分かったものではない。 気付けば、指先の震えは止まっていた。 「疾風さん、久しぶり。……ちょっと情けないところを見られたけど、ね」 そう言って破顔する白斗を見て、疾風は安堵の息を零した。 翡翠の龍、疾風は闘神である櫂夜の目付け役だ。風の噂によれば乳兄弟であるらしいとも白斗は聞いている。 腰を過ぎた辺りにまで届く髪や穏やかな瞳は、彼自身の鱗と同じ翡翠色であった。 翡翠は豊かな知性を与えられた龍のみが持つと聞く。疾風は、龍族において最も膨大な知を誇る知龍であった。 穏やかな風がふわりと舞い、疾風の白い羽織が揺れる。 彼を取り巻く風は疾風自身と同様に、一寸の乱れも見せず温かく澄んでいた。 「いえ、白斗殿。私は朧のような癒しの術を使えませぬ。 このように風を送る事は容易なのですが……顔色が優れぬようですね」 「大丈夫だよ。少しだけ昔の事を思い出しただけだからさ」 「無理はなさらぬように、白斗殿」 「ありがとう、疾風さん。……それで、どうしたの? 疾風さん一人でここに来るなんて珍しいね。 陽炎と朧は? 気配もないようだけれど」 「………それが、」 言い淀む疾風の顔が、一瞬にして曇る。微かに薄い唇が震えているようにも見えた。 「なるほど……。もしかして、瘴気のことかな?」 「お聞きになられていましたか。ということはこちらに櫂夜様が、」 「ついさっきまでね。用件だけ伝えてどこかに行ってしまったけれど、 これは一体どういう事かな? 出来れば僕に詳しい話を聞かせてほしいんだ。今の状況を知りたい」 「………我ら龍族にも、現状を把握している者はいないのです。白斗殿は、櫂夜様の地位をご存知ですよね?」 「もちろん。この世で唯一、瘴気を消し去ることが可能な闘神、でしょう?」 闘神。 読んで字の如く、闘うために刀の所持を許された上位の龍にのみ与えられる地位である。 龍族の要とも言える四大龍王の一役所である闘神は他三つの存在に比べ、最も過酷な条件を求められる。 強い精神力とそれに見合う気の大きさ。刀を振るう事に揺るがない意志。 そして圧倒的な剣技の生み出す破壊の力。それを持ち合わせた龍のみが、闘神となる権利を与えられるのだ。 しかし、何も必要なものが強さだけではない所がこの『闘神』の悪癖である。 「言い方を変えるならば……闘神は瘴気を打ち消す力を生まれながらに備えていなければならぬのです。 瘴気はこの世の毒。その毒を浄化する存在が、現闘神である櫂夜様です」 「あんなのが上位の龍だなんて、僕は信じられないんだけどね」 うんざりと眉を寄せる白斗に、疾風は小さく苦笑した。 「現在、各地で瘴気が発生しています。櫂夜様が討伐に向かわれておりますが、 幾分数が多く手が追いつかないのが現状です。……このままでは、櫂夜様のお体が持つかどうかも分かりません」 「だから顔色が悪かったのか……。でも、朧が癒しの術を使えるはずでしょう? あの子の力でどうにかならないのかな」 「それが………、」 翡翠色の目をそっと伏せて、疾風が緩やかに首を振った。 その様子に「まぁ、そうだろうね」と、白斗が呟き呆れたように息を吐き出す。 櫂夜は、とにかく強引で傲慢な性格であると有名だ。 ついでに、意地の張り合いでなら誰にも負けない強情さまでも兼ね備えている。 それは、随分と長い付き合いである白斗が身に染みて理解していた。 「我が儘で意地っ張りな櫂夜が、自ら休息を取るなんてするはずがない」 「ええ、仰る通りです」 「まったく、本当に馬鹿なんだから。疾風さんの気苦労が知れないよ。……あ、そうだ。 櫂夜が向かった場所、疾風さんは知っているの? だいぶ慌てていたようにも見えたんだけど…、」 「白斗殿」 聞き慣れない鋭い声が鼓膜に響く。 厳しい色を見せる疾風の様子に自然と白斗の背筋が伸びる。翡翠色の瞳には硬く強張った光が揺れ、 動揺が見て取れた。普段の穏やかさは消え去り、闘神同様の焦りと、不安が色濃く映っている。 ざわ、と白斗の胸の奥が騒ぐ。獣としての直感なのだろうか。嫌な予感がする。 「白斗殿。おそらく、櫂夜様は白斗殿の耳に入らぬようにと、あえて何もお話しにならなかったのだと思います。 ですが、白斗殿。あなたには知る権利がある。―――櫂夜様は、南の地へと向かわれました」 「……南、だって?」 白斗は言葉の意味を否定しようとした。何かの聞き間違いであってほしかった。 「はい」 しかし、叶わなかった。静かな肯定の言葉が耳を貫く。 眩暈がする。ぐらぐらと、地面が揺れているようであった。 このまま倒れ込んでしまいそうで、身の竦む思いになる。それに流されぬようにと、唇に歯を立てた。 「ねぇ、疾風さん。その意味は……あの二人が巻き込まれている、と受け取ってもいいんだね?」 「心苦しいのですが、仰る通りです」 「そう。……疾風さん、早く櫂夜のところへ行ってあげて? いい加減休ませないと本当に倒れてしまうよ。 僕も瘴気には気を付けておくし、いざという時には凛をそっちに向かわせるから」 「分かりました。それでは、失礼いたします」 疾風が深々と頭を下げた瞬間に、突風が吹き荒れる。思わず腕で顔を覆った白斗は薄目を開けて、空を睨んだ。 風が舞う。それは急激に速度を増し、逸る気持ちを抑えて南へと駆けていく。 しなやかに伸びる翡翠色の肢体は大空に美しく映え、色鮮やかに輝いた。 「もう……勘弁してよね」 溜息と共に呟いたその上空で、翡翠色の鱗を持った龍が天高くを泳いでいる。 |