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「ったく、面倒な事になりやがって……」
降り立った大地には、すでに甘い毒が満ちようとしていた。薄い紫の霞が櫂夜の体に絡みつく。 生温い風に長く伸びた黒髪を撫でられる。纏わりつくようなその様に櫂夜は舌打ちをし、 忌々しく悪態を吐いた。付き人である翡翠色の彼に聞かれてしまえば、間違いなく櫂夜を窘めようとするであろう。 龍族において上位の位を持つ闘神は、その口の悪さも有名である。 掴み、引き寄せようとする毒の腕を忌々しげな青い視線が捉える。 舐めるように体を這うそれに、意思はない。周囲のものを無差別に飲み込み、冒していくからこそ有害な毒なのだ。 櫂夜は鋭い眼光で紫の霞を見やり、片手で魔手を振り解いた。 「………気配が弱いな」 目を閉じ、耳を澄ます。毒に中てられた大地から生き物の気配が消えようとしている。 そしてその大地に根を下ろす草木もまた、微弱な気配しか感じられない。土地そのものがじわり、じわりと息絶えていく。 拙い。 想像以上に毒の回りが早いようであった。早急に手を打たなければ、この大地は死滅するであろう。 それだけは、回避しなければならぬのだ。この土地には巨大な桜の木と、 銀色の神狼が暮らしている。彼らはこの土地の象徴であった。 いけ好かない者達だが、櫂夜にとって付き合いの長い友人とも言える彼らをこのままにしてはおけない。 そして何より、闘神としての誇りが彼を急き立てる。胸の奥が熱く疼いてくる。 急いた熱は全身を駆け巡り、耳の奥で激しい鼓動が鳴り響く。櫂夜は腰に差した刀の柄に手を掛けた。 「は、大人しく斬られてやるつもりはないってか?」 薄く開いた青い瞳に、禍々しい影が飛び込んでくる。ゆらりと立ち上る影からは、不吉な死の匂いがした。 まるで触れた全ての物を飲み込んでしまいそうな、底のない奈落のようであった。 櫂夜の唇が三日月にも似た弧を描く。 「良い度胸じゃねぇか。―――だが、この俺に喧嘩を売るなんざ百年早い」 抜き身の刃が妖しく光り、立ち塞がんとする悪しき獲物へと狙いを定める。 闘志を灯した青い目は爛々と輝き、躊躇う事なくその牙を剥いた。 大きな木の幹に銀色の獣が蹲っていた。 毒が回っているのか、その動きはひどく緩慢で捕食者である彼には似合わない。 彼は大地を駆ける者だ。櫂夜は呆れたように、わざとらしく溜息を零して銀色の彼を見下ろした。 「―――煉皇」 尊大な青の瞳が銀色の獣を捉え、その名を呟く。 「……あぁ、君か。その様子だと、どうやら討伐は完了したようだな。助かったよ」 「当たり前だろう、俺を誰だと思っている?」 傲慢な闘神の言い草に、銀色の髪をした神狼は穏やかに微笑んだ。 その影に疲労が滲んでいる様だったが、どこか誇らしげにも見える。 彼の様子に櫂夜は不機嫌な顔を隠しもせず、小さく鼻を鳴らした。 煉皇は脱力した体を僅かに起こし、唇の端を緩ませる。 深緑色の直衣がよく似合う長身。精悍な顔付きは凛々しくも品があり、切れ長の瞳に独特の艶が浮かんでいる。 緩やかに背を流れる髪は白銀。その色こそ、神狼である煉皇の色そのものであった。 銀の毛並みを持つ狼は濃紺の瞳に疲労を含ませながらも、獣特有の力強い目で櫂夜を見る。 「相も変わらず、君は清々しいほど自尊心が高いようだ。まぁ、そうでなくては面白みがない」 「ふん、そういうお前は相変わらず馬鹿だな」 「さて……、一体何のことかな? 俺には皆目検討がつかないよ」 「阿呆が、とぼけてんじゃねぇぞ。ただでさえ毒の回った体で、他者に気を分け与えるとはな。 瘴気は全ての命を蝕む。例外なく、全ての命を枯らす。その中でのお前の行為は、無謀なだけだ。 弱った体を更に弱らせてどうする? 死ぬ気か?」 「……まったく。君は遠慮というものを知らないのか?」 力なく肩を竦め、煉皇はそっと目を伏せた。櫂夜は言葉を包み込むことなどせず、 些か真っ直ぐ過ぎる台詞を吐き出す。はっきりとものを言うのは良いが、せめて少しだけでも言葉の端を丸くすべきだ。 だが、それはそれで不気味な様にも感じられる。遠慮というものを覚えた櫂夜は、正直気味が悪い。 まず間違いなく、あの妖狐は頭でも打ったのかと驚くであろう。 その様子がいとも簡単に想像出来てしまい、煉皇は喉の奥で低く笑い目を開いた。 「無茶でもしなければ、彼女が危ない所だったのでな……。それに、俺は当分死ぬつもりはないから、安心してくれ」 ごつごつと背に触れる太い幹は、ちゃんと生きている。それが煉皇にとって、最大の喜びであった。 彼女さえ無事ならば、己の身など構っていられない。構う必要性すら感じない。 煉皇は「君の言う通り、俺は馬鹿なのだろう」と言って小さく苦笑し、佇む櫂夜に微笑み掛ける。 穏やかさに満ち、苦痛など感じている様子もない誇らしげな笑み。 櫂夜は気まずさを感じふ、と逃れるように視線を逸らす。 霞が消えたおかげで煉皇の目には彼の顔色がはっきりと映った。 艶を失った黒髪や目元に浮かぶくっきりとした隈。血の気が引いた唇は青褪め、微かに震えているようである。 そこには覇気に満ちた闘神の姿などなく、衰弱した男が力の入らない足で立っていた。 「しかし、櫂夜。君の顔色は随分と悪いな」 「お前に言われる筋合いはねぇ」 「君の事だ、大方無理をしているのではないか? ほら、翡翠の彼もよく言うだろう、 君はひどく強情で意地っ張りだ、と。悪い事は言わない、少し休め」 「知るかよ。……ったく、お前がくだらねぇ事を言ってる間に、追いつかれちまった」 風が吹いた。 ふわり、と優しく緑が香るような、温かい風だ。それは瘴気を浴びた大地を癒すかのように、 清涼さと共に現れる。櫂夜が忌々しげに舌打ちをした。 「―――櫂夜様」 風に揺れる翡翠色の髪が鮮やかに降り立つ。 「いい加減になさって下さい。どうしてそう、無茶ばかりをなさるのです? いくら闘神とはいえ櫂夜様の御身に負担が掛かります。一旦休息を取り、お体を労わるべきでしょう」 「追いついた早々、説教か。お前はいつから説教好きになった?」 「櫂夜様……。冗談で誤魔化すおつもりですか?」 これは珍しい、と煉皇は胸の内で感嘆の声を上げた。 何しろあの翡翠色をした龍が刺々しい雰囲気を放っているではないか。 終始穏やかに、そして柔らかに微笑む彼らしからぬ姿である。 少しばかり興味を引かれた。この際黙って見学するのも、また一興であろう。 煉皇はこの珍しい光景を傍観する事に決めた。もちろん、口論になる場合は存分に口を挿み、 彼らを諌めるつもりではいる。温和な疾風は良いとしても、気が短い櫂夜の事だ。 言葉を荒げ勢いに任せたまま、彼を責め立ててしまう可能性も十分に考えられる。 ただでさえ疲労が限界にまで達しているのだ。闘神の導火線は今、非常に短い状態である。 「なら聞くが、俺が休んで瘴気が消えるとでも言うのか? 自然に治まるとでも? …無理だろう。 それが可能ならば、何の為の闘神だ。今の俺に休息を取る時間なんざねぇよ」 「お言葉を返すようですが、現在、瘴気は沈静化している模様です。 新たに発生した瘴気はありません。ですから、櫂夜様。今だけでもお休みになって下さい」 「疾風……くどいぞ」 鬱陶しげに細められた青の視線が深々と疾風に刺さる。苛立ちと疲労が入り混じった眼差しは鋭く、 それでいてひどく虚ろであった。 本来ならば、立っているだけでも限界なのだろう。 溜まりに溜まった疲労は彼を蝕み、倒れる寸前までに追い詰めている。 煉皇の目から見てもそれは明らかなのだ。櫂夜を傍で見守る立場である疾風にしてみれば、 一刻も早く休んでほしいと望んで当然の事である。 「陽炎と朧も近くに控えております。万が一、瘴気が再び発生したとして、 すぐにでも対応出来るよう私が手配しておきますから、どうか」 「疾風」 「はい、櫂夜様」 鋭利な刃物のような声が疾風の言葉を遮った。 「だからと言って、お前達に何が出来る? 陽炎は次期闘神候補だが、実力は未だ俺の足元にも及ばねぇ。 朧は癒しの術を使えるが、瘴気は消せねぇだろう。そしてお前は知龍だ。 知龍が武を保持する事は許されない。……お前が俺に口出しするなど、認めた覚えはないぞ」 低く押し殺された闘神の声色は四方に棘を生やし、踏み込む者を許そうとしない。 手当たり次第に周囲を傷付け、自身を孤独に追い込もうとする。それはさながら、手負いの獣のように。 彼は、限界なのだ。 これは拙い、と煉皇は気だるい体を必死の思いで保ちながら内心呟いた。 人のことを言えた義理ではないが、彼の顔色はやはり悪い。そのせいもあって、 櫂夜の機嫌も悪くなっているようである。彼の苛立ちが空気を介し伝わってくるほどだ。 尋常ではない。傍観に徹するなど、悠長な事を思っている場合ではなかったのだ。 あちらこちらで傲慢だと囁かれている櫂夜ではあったが、彼は無闇に他人へ当り散らすことは決してない。 むしろ、闘神の責任を一人で背負い込んでいるほどであった。 その彼が、近しい者に対し苛立ちを吐き出す。煉皇の目には、それが異様なものに映った。 煉皇は僅かばかり眉を顰めて、淡々とした調子で言葉を紡ぐ櫂夜を諌めようとした。 だがその前に、翡翠の瞳が瞬き薄く微笑んだように見えた。 「もう一度、お聞きいたします。休息を取るつもりはないと、そう仰るのですね?」 「何度も言わせるな。当たり前だろうが」 「そうですか。………ならば、仕方がありません」 諦めるのか、と煉皇が溜息を零しかけた、その時だった。 「私の話を聞いて下さい。―――櫂夜」 ひどく穏やかで、甘い声だと煉皇は思った。その声を発しているのが疾風であることにまず驚く。 何より、彼が櫂夜に対する態度を変えたことに仰天する。珍しい、の一言では到底処理が出来ない事であった。 「櫂夜、今は少しでも体を休めましょう。私は貴方が心配なだけなのです」 「……っ…、お前はっ、こんな時に限って!」 「どうして? ちっとも休もうとしない貴方が悪いのでしょう」 「だからって、こんな……っ」 途端に取り乱す櫂夜を目にして、煉皇は驚きを通り越し呆然としてしまった。 ここまで取り乱す彼を、煉皇は一度たりとも見たことがなかったのだ。 なるほど、どうやらあの翡翠は闘神の弱点をよく心得ているらしい。 そう思うものの、何とも違和感は拭えない。不遜な態度を崩す事無く、 涼しい顔でにやりと笑う普段の櫂夜からは全く想像も出来ない姿に煉皇はただ目を見開き言葉を失くした。 「ねぇ、櫂夜。少しだけでいい、お願いだから休んでくれませんか? 貴方が眠るまで私は傍にいますから。昔と同じように、ずっと傍にいます」 「子供扱いするなっ」 櫂夜が怒鳴る。疾風はそれを気にする風もなく、そっと一歩を踏み出した。 そしてゆっくりと、櫂夜の真っ黒な髪に手を伸ばした。 びくりと震える櫂夜の肩が頼りないものに見えた。覇気のない青の瞳は、大きく揺らいでいる。 それは戸惑う子供の表情と瓜二つであった。叱られると構えていた幼子が優しく頭を撫でられ、 どうすればいいのか困っている。戸惑って、その手を取る事に躊躇っている。煉皇の目には、そう映った。 そっと伸ばされる疾風の腕を櫂夜が振り払う。 ぱしっ、と思いのほか大きく鳴った手の甲を打ち据える音に櫂夜の顔は余計に歪み、物悲しそうに眉が下がった。 しかし、疾風は払われた手を再び伸ばし、櫂夜の黒髪を指先であやす様に触れる。 「昔から、貴方は聞き分けがありませんね。本当に……ちっとも変わらない」 「何を……っ、」 「いいから、眠ってしまいなさい」 疾風の指が長い黒髪を梳く。瞬間、櫂夜の意識は深く沈んでいった。 「……聞いてもいいだろうか」 「はい、何でしょうか」 がくん、と体を折るようにして意識を失った櫂夜の体を疾風は壊れ物でも扱うかのように慎重な様子で受け止めた。 彼の口元には満足げな微笑が浮かび、翡翠色の瞳に温かな色が灯っている。 慈愛にも似たその視線は、ひたすら櫂夜の身に注がれているのだ。 崩れ落ちた櫂夜を近くの木の根元に預け、疾風がくるりと振り返る。 彼の声は普段耳にするものと全く同じで、煉皇は一体先程のことは何だったのだと首を捻りたい気持ちになった。 「彼に、一体何をしたのだ?」 「何…と言えばいいのでしょうね。幼い頃の櫂夜様は、私を兄のように慕ってくださいました。 その頃の名残か、今でも当時のように私が接しようとすると、先程のように混乱されてしまうのです。 混乱、と言うよりは戸惑いでしょうか。櫂夜様ご自身が私とどのように接すればいいのか、 分からなくなるそうなのです。ですから、それを少々利用させて頂きました」 「なるほど。では、櫂夜が気を失うように眠ってしまったのは、何故だ?」 「少しばかり強制的に、眠りを施す術を掛けたのです。こうでもしなければ、櫂夜様がお休みになる事はありませんから」 「それは……彼が目覚めたら、恐ろしいだろうな」 「覚悟の上です。櫂夜様は強情で意地っ張りで、責任感が強過ぎる」 複雑な顔をして、しかし浮かぶ微笑はどこか柔らかく、疾風の気性をそのまま表しているようであった。 彼はとにかく、櫂夜を大事に思っているのだ。彼の柔らかな微笑みが、そう告げていた。 翡翠色の瞳は全てを包み込む柔らかな風なのである。 誰かを強く思うその心は、煉皇は痛いほどに理解出来た。 疾風が闘神を思う気持ちと自分が彼女を思う気持ちとでは、別物でありながらとても近いものがある。 煉皇は「苦労しているのだな」と小さく笑って、背を預ける大樹を見上げた。 「煉皇殿。貴方もそろそろお休み下さい。朱姫殿に気を分け与えていたのでしょう? 体が限界のはずです、櫂夜様がお目覚めになるまでは私もここを離れません。それまで、ゆっくりされて下さい」 「そう、だな…。少し眠らせてもらおう」 毒に冒された体は、未だ動かすことが辛い。指先すら動く気配は見せないし、何より強い眠気が襲ってきた。 獣としての本能だろうか。弱った体が睡眠を媒体とし自己回復を図ろうとしている。 「―――お休みなさい」 眠気に霞む視界の奥で、翡翠色が風に揺れていた。 |