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荒らされてしまった大地は夥しい血で汚れた。汚されたのだ。
乾き切った風に時折混ざるのは、生温く不快な生き物の死滅していく臭いであった。 ここでは全ての生き物が死に絶えた。虫一匹ですら、生きていないのかもしれない。草木はとうの昔に枯れている。 「…もう……、………て…」 刃のぶつかり合う音は、ひどく恐ろしかった。どうして彼らは殺し合うのだろう、どうして命を奪い合うのだろう。 ほとほと理解が出来ない。人間とは、真に不思議な生き物だ。 血を流して、血を流させて。 命を奪って、命を奪われて。 そうして、やがては何も残らなかった。消えていった。 残されたのは、醜い感情と爛れた憎悪と、悲しみにも似た絶望だ。こんなもの、どうして人間は置いていくのであろうか。 大地を蝕む毒を、どうして生み出すのであろうか。分からない。ただ、悲しくて堪らない。 「……もう、やめて」 消え入るように呟いた声は誰の耳にも届かない。 □ ■ □ ■ □ 漆黒の翼を折り畳み、凛之助はふわりと着地した。 黄昏時が近付く今、頬を撫でる風は少しだけ冷たい。季節が移り変わるこの時期には、あっという間に夕刻が訪れる。 きっともうすぐ木々は色鮮やかな紅葉を落とし、やがては散ってしまうのであろう。 そうしていずれは、真白い冬がやって来るのだ。 冬になると、この森にも雪が積もる。朝日が昇り、雪面に光が差すと、辺り一面は明るく輝き目に眩しいほどであった。 その光景はひどく幻想的で、凛之助の脳裏に深く刻まれている。 新雪の上を我先にと駆け回ったのは、記憶にも新しい去年の事だ。 踏み締める度にきゅっと鳴くあの感触はどうにも癖になる。 「……あかん、体冷えよったわ」 ぶるり、と小さく身震いをする。体のあちらこちらにぶら下げた数珠が同時に揺れ、乾いた音が辺りに響く。 凛之助は一度短い息を吐いて、石畳の上を駆け出した。からん、と高下駄が鳴り、調子の良い音頭のようであった。 「白兄、中に戻ったんかな……」 折角気合を入れて森の中を見てきたというのに、何だか裏切られた気分になる。 紫水晶の瞳に不満をありありと浮かべ「待っとってくれてもええやん」、と凛之助は一人、唇を尖らせた。 折り畳んだまま放置していた翼を小さく収め、僅かに足の速度を落とす。 夕暮れに反響する下駄の音はどこか物悲しく、心細い音色を奏でた。 「白兄ーっ。 たっだいまーっ!」 聞き慣れた賑やかな声が耳を貫き、白斗はうんざりと眉を寄せた。 しかしその顔をすぐに戻して「おかえり」、と穏やかに返す。たったそれだけの事だというのに、 閉ざされた戸の向こう側からは嬉しそうな弟弟子の気配が伝わってきた。 それが何とも微笑ましく、少しだけくすぐったい気分になる。 あまりに単純且つ素直な凛之助の反応に白斗はひっそりと苦笑し「中に入っておいで」と、 今にも戸を突き破ってきそうな凛之助に告げ、背筋を伸ばした。 「白兄? 右京と左京には先に戻れ言うたけど、帰っとる……、」 「ありがとう凛、少し前に二人共帰ってきたところだよ。 そんな所で固まらないで、入っておいで。ほら、早く戸を閉めなよ。風が冷えてきた」 「なっ……はぁ!?」 「……あのね、凛。君は一応僕の弟弟子なんだから、二人が森に入った時点で気付くべきなんじゃないかと僕は思うよ」 口をあんぐりと開け、何度も瞬きを繰り返す凛之助に白斗は思わず呆れ声になる。 凛之助は白斗の弟弟子だ。同じ師から様々な事を学び、学んだ間柄だ。 今は未熟であるが、凛之助の力を白斗は認めており、今後大いに化ける可能性があると踏んでいる。 しかし、この弟弟子は肝心なところで詰めが甘い。 上空から森の偵察を頼んだ際に、何故気付かなかったのか。 「―――久しいですねぇ、凛之助」 鴉天狗の目を掻い潜り森への侵入を果たした黄金色の月が悠然と、そして妖しく微笑んだ。 彼のその瞳は、星々の煌きをそのまま映し込めたような銀色である。 一つの癖もない金糸は美しく、彼の存在をより確かなものへと見せている。 その姿は、まさに月だ。夜空にぽっかりと浮かび、存在を知らしめる黄金の輝きに酷似している。 月の寵愛を一身に受けて生まれた鉄鬼、枷月は切れ長の目に凛之助を捉え言葉もなく見つめる。 星色の瞳と目が合った瞬間、鴉天狗の口から長い溜息が零れ出た。 「……相変わらず神出鬼没やなぁ、鬼の旦那」 「おや、ありがとうございます」 「誰も褒めとらんわ。…氷榁姉も可哀想に、苦労しとるやろ?」 「あら、慣れてしまえば意外と平気なものよ」 そして、月の隣には蒼い少女がいた。 彼女はどこまでも蒼く、純粋な生き物だった。腰まで流れる絹のような手触りの髪も、 身を包む着物も、彼女を構成する全てが蒼い。しかしその蒼は、 闘神の持つ絶対的な瞳の色よりも淡く、控えめで澄んだ色合いをしている。 例えるなら、彼女のそれは真冬に張る薄氷のように透き通った儚き色だ。けれど、そこに冷え冷えとした冷淡さはない。 氷榁が隣の月をちらりと盗み見て、「枷月は常にこの調子だもの」と言いながらくすくすと笑った。 鈴のように転がる声色が白斗と凛之助の耳朶を心地良く刺激する。 「凛、水寿にはちゃんと伝えてくれたかな?」 「もちろんや」 「ありがとう、助かるよ。僕も後で彼女の元へ会いに行くつもりだから、その時は留守を頼む事にするよ」 自信たっぷりと頷いてみせた凛之助に、白斗はそっと微笑んだ。 「さて、凛も戻ってきた事だし……。枷月、そろそろ君がこの場を訪れた理由を聞かせてもらえないかな。 君があちこちを放浪しているのは昔から知っているけれど、この時期に氷榁共々訪れるのは妙だ。 一体何を勘付いたのかな?」 「全てお見通しだとでも言いたげな口振りですね、白斗。勘が良いのは貴方の方ではありませんか」 「さぁ? 単に僕は、櫂夜や疾風さんに多少話を聞いているだけだよ。 大して詳しいわけでもない。…枷月、君は何を考えているのだろうね? 君は賢いから、誤魔化すのも上手い」 「おや………それは、酷い言い草だ」 じっ、と赤い目で見据え、白斗は浮かべた笑みをそのままに枷月と向かい合う。 弧を描くように持ち上がる口角。隙がなくやけに不敵な微笑みは、森の主としての顔なのだろう。 それに対抗するように枷月も薄く微笑み、しかしその目は笑っていないようであった。 隣の氷榁が困ったように小首を傾げる。 どうにも不穏な空気が流れ始めたようだ。 肌を刺す刺々しい雰囲気に凛之助は不安を感じ、白斗の後ろで小さく正座をした。 「では白斗。貴方は私達について、鬼の存在についてはどれほどの知識を持っているのでしょうか?」 「それはまた、いきなりだね。……そうだな、鬼とは本来、その土地に生まれた精霊のような存在だったはず。 様は土地神のようなものだ。自らの生まれた土地に生き、鬼の存在が消滅すると共にその土地も死滅する…。 人間の思う『鬼』とは全くの別物である事は知っているけど、僕の持つ知識はこの程度だよ。常識の域を過ぎない」 「いえ、十分です。確かに私達は精霊の存在に近いものがある。………鉄鬼である私を除いて、ね」 くす、と枷月は唇だけで笑い、切れ長の瞳をゆっくりと細める。銀色の虹彩は、驚くほど冷たい。 まるで無機物のようで、枷月の顔が人形のように見えた。 ぞく、と凛之助の背筋が寒くなる。 鉄鬼とは、鬼の中でも殊更特別な存在である。鉄鬼は生まれた土地を持たない。 気付いた頃には自身の意識と体が産み落とされ、当たり前のようにそこに存在している。 そしてその存在が消える時、再び何処かで鉄鬼は生まれる。延々と、その繰り返しなのである。 終わりを与えられなかった永久にも近い存在。移ろう月と同じく、いつまでも繰り返され巡りゆく存在。 鉄鬼の証は黄金の髪に、輝く銀の虹彩だ。彼はその身に月と星の色を持つ。 だからこそ鉄鬼は月に愛された鬼と、そう呼ばれているのであった。 「鬼という存在は、人間が思い描くそれよりも随分と脆く拙い。鬼は終始土地に縛られ生きていく。 いえ、生きていかねばならない存在です。命尽きるまで、その呪縛からは逃れられない。 一時の間土地から離れようとも、その鎖から解き放たれる事は決してないのです」 「知っているよ。だからこそ鬼は自らを生んだ大地を慈しむ。 自身の母である土地を荒らす者には絶対の制裁を与え、徹底的に排除する。 ……人間はそれを勘違いして、鬼が害のある存在だと決め付けた」 低めた声で淡々と事実のみを告げる白斗に、枷月はそっと頷いてみせる。 月の寵愛を一身に受ける彼の金糸が揺れ、その鮮やかさがやけに目を引いた。 「ならば白斗、貴方は知っているでしょうか」 「……枷月、君は何が言いたいのかな?」 じり、じりとわざとらしく焦らして掛かる枷月の様子に白斗の視線は自然と厳しいものへと変わっていく。 妖狐の訝しむ眼差しを平然とした風に受け止める枷月は、ふと視線を隣に流し沈黙を守る氷榁を目の端に捉える。 蒼い少女は敏感にその視線を感じ取り、はにかむように淡く微笑んだ。 しかし、その笑みにはどこかぎこちなさが浮かんでいるようにも見える。 視線を白斗に戻した枷月は形の薄い唇で弧を描き、感情の読めない微笑を張り付けた。 「生まれたのですよ―――正真正銘の悪鬼が、ね」 すぅ、と浅く呼気を吐き出し、鉄鬼は殊更ゆっくりと言葉を紡ぐ。 「……枷月」 「貴方は悪鬼の生まれ方を知っているでしょう? ……いえ、貴方ならば、その身をもって十分に理解しているはずです」 枷月は表情をそのままに、白斗へ問う。 対する白斗はぴくりと片眉を動かして、黄金色を戴く鬼を強く睨んだ。 赤い瞳が獣特有の光を宿し、剣呑な空気がぶわりと広がる。白斗の背を見つめていた凛之助には、 その姿が今にも獲物に襲い掛かりそうな捕食者と重なる。兄弟子である彼は、意外と気性が激しい面があるのだ。 「……あのね、枷月。そういう事はもっと早くに言ってくれないかな。 ただでさえ僕は現状を把握出来ていないというのに、君は前置きが長過ぎる。悪い癖だよ」 「すみませんねぇ。生憎、このような性分ですので」 「全く、本当に良い性格しているよ。……ところで、凛。呆けた顔をしているけれど、今までの話は理解出来たのかな」 「………へ? あ、無理。全然分からへん」 清々しいまでにきっぱりと言い切った凛之助に、白斗は盛大な溜息を零す。 彼が師にいいように遊ばれてしまう理由を垣間見たようにも思う。 無意識に皺の寄った眉間を指先で軽く揉み解し、白斗が深い溜息を零した。 僅かに肩を落とした枷月が「要するにですね、」と苦笑を滲ませ、簡潔に言葉を続ける。 「瘴気の発生には、悪鬼の誕生が深く関わっている、という事です」 「……何でそうなるん?」 「凛君、もしかして悪鬼の生まれ方、知らない?」 蒼い目を丸く開き、沈黙を守っていた氷榁が尋ねた。彼女の問いに大きく頷く凛之助は、 本心から答えているようであった。これは困った、といった様子で白斗が鉄鬼に視線を送る。 赤い視線を受け止めた枷月は、つと考える素振りを見せ一寸押し黙った。 視線の先がどこでもない空を彷徨い、遠くを見る。凛之助はどうするべきか戸惑い、こちらも黙って彼の言葉を待った。 ふっ、と焦点の合った銀の瞳が寂しげに表情を歪める。 「欲の流す血は醜い」 硬い声色で枷月が呟く。 「鬼の生まれた土地に血が流れたのです。欲に塗れ、憎しみに浸った赤黒い血が流れた。 血は毒となり大地を汚す。土地と直接的に結ばれた鬼には、一溜まりもありません」 「……何や、それ。人間か?」 「ええ、そうですよ。人はいつの時代も戦を引き起こす」 枷月の顔に暗い影が落ちた。その隣で静かに微笑む氷榁も、どこか悲しげに眉根を寄せていた。 「毒を吸った鬼はやがて憎しみに支配される。憎しみの矛先はこの世の全てに向けられる。 その証拠として、彼らの瞳は例外なく憎しみの赤に染まる。これが、悪鬼の誕生です。悪鬼は負の感情が誕生させるのです」 煌めく星色の瞳が淡々とした様子で語る。そこに躊躇いはなく、ただ包み隠さず事実のみを突き付ける。 避けられない現実に凛之助は悪寒を感じ、縋るように白斗の背を見つめた。彼は、微動だにしなかった。 憎しみに染まる、赤い眼。 白斗は枷月の言葉に頷く事もなく、真っ向から彼の姿を見返していた。 じっと息を潜め獲物を待つ獣のように、赤い瞳を凝らしながら。 「人は己の欲で悪鬼を生み出す。……私は、そんな彼らが恐ろしくて仕方ない」 □ ■ □ ■ □ 命あるもの、全ての体には赤い血潮が流れている。 こんこんと湧く泉から溢れる清水の如く、心の臓は血を巡らせ命の循環を繰り返す。 生まれ落ち、そして死に逝くその日まで、赤き巡りが絶える事はない。 ならばこの体はどうなのだろうか。彼は、自らの身体に問い掛ける。 体温はひどく低い。ひんやりとした冷気に似て、熱という熱を全て奪われたようでもある。 おかげで血色は悪く、指先まで青白い。この下には一体何が流れているのか。 彼にはふとした時に考える瞬間があった。この青白い肌の下に、赤い血潮が流れているとは到底信じる事が出来ないのだ。 「………死人の肌とは、このようなものを言うのだろうか」 そうして彼はくっ、と喉を低く鳴らし笑った。 「いや……違うな。これは、死人によって生み出された色だ。……俺のものではない」 ひゅるり、と寂しげに風が鳴く。それがまるで悲鳴のようで、彼は不快感から顔を顰める。 鼓膜まで貫くそれはひどく耳障りであり、彼の気分を害すには十分であった。 冷たい肌。血の気が無く死人のようで、しかし彼は確かに呼吸をしている。 少なくとも彼の体は、生きていた。赤みを持たずとも生きる事は可能だった。 肌の下に流れるものが何であろうと、彼にとっては大した意味を持たない。 彼に必要なものは、大きな憎しみと果てのない悪意のみであった。 「さぁ、宴を始めようではないか」 実に楽しげに男は言う。彼の体からは仄暗い甘露のような毒の香りが漂い、辺りの空気を薄紫に変えていた。 極上の甘さ故に、最も危険な毒の香り。それが男の周囲を取り巻いている。 にたり、と男は笑った。彼の瞳は血塗られたように赤く、爛々とした憎しみに輝いていた。 |