頬を撫でる柔らかな風に煉皇は瞼を震わせた。
 薄く目を開き、濃紺の瞳がそっと辺りを見渡す。甘い毒の香りはとうに消え、 豊かな緑の匂いが煉皇の鼻先を掠めた。ふわりと漂う深緑の匂いと共に、どこからともなく淡い桜の香りが混ざる。
「―――目が覚めたようじゃな、煉皇」
 艶やかさを秘めた女の声が煉皇のすぐ傍で響いた。
「まったく、お主は無茶をする。揃って毒の餌食になるなど、我は遠慮願いたいと言うに」
「それは……悪い事をした。君が弱っているようだったのでつい、な」
「だからと言って、それでお主が弱ってどうするのじゃ? ……本当に、馬鹿な事をする」
 彼女の白魚のような指先が煉皇の頬を撫でる。
 目元を撫で、顎先を伝い、両頬をそっと包み込む。擽られるような感覚に煉皇はそっと目を細め、 口元に小さな笑みを浮かべた。その微笑みはどこか誇らしげであった。
「あぁ。確かに俺は愚か者かもしれないな、朱姫」
 彼女の柔らかな指先を堪能し、煉皇は濃紺の瞳を閉じた。暫く休息を取ったはずの体は未だに重く、 身動ぎ一つさえ億劫に感じる。しかし、満足であった。唯一無二の存在である彼女が無事であれば、もう望む事などない。
 朱姫の指が煉皇の長い銀糸を梳く。女の朱姫でさえ羨む柔らかな手触りのそれは掌を滑り、彼の肩口へ伝った。
「もう暫く眠っておれ、お主には休息が必要じゃ」
「朱姫、君は平気なのか?」
「どこぞの神狼が無茶をしたからのう。完全に力が戻ったわけではないが、 お主よりは回復しておる。…あまり無理をするでない。我が心配せぬとでも思ったか?」
 普段は気丈な彼女の声が震えている。耳の良い煉皇には、その小さな変化が手に取るように分かった。 重い瞼を引き上げ、彼女を視界に捉える。目に鮮やかな緋の髪がさらさらと風に揺れ流れていた。
 風の中に龍達の匂いが混ざる。先に訪れた櫂夜と疾風のほかに、もう二つの気が混ざっている。
 おそらくは、櫂夜の部下である龍達だ。これだけ龍の気に満ちている今ならば、 悪しきものも寄り付いてはこないであろう。龍の一族は、その存在自体が強力なのだ。 力の弱い者達ならば彼らの気に触れただけで体の自由を失い、畏怖の感情すら抱く。
 そこまで考えが至り、煉皇は緩やかに息を吐き出した。
「もう暫く、休ませてもらうよ。…次に目が覚めたら君に謝らせてほしい」
「何を言うか。今はそのような事を気にせず、休むのじゃ」
 彼女は艶やかに、そして柔らかに微笑んだ。髪を梳く細い指先は心地良く、煉皇は再び睡魔に襲われる。 誘われるように目を閉じ、背を太い樹木へ預けるとそのまま体が沈んでいくと錯覚するほどであった。
 ほっ、と彼女が安堵の息を吐き出す気配がした。煉皇の意識は、それきりで途切れた。

「疾風様、櫂夜様の具合はどうなんですかぃ?」
「……疾風様、櫂夜様は?」
 真っ赤な着流しをだらしなく着崩し、両の金眼を不安げに細めた少年と、 桃色の髪を風に遊ばれながらも表情を一切動かさない少女が小声で疾風に尋ねた。
 知らぬ間に後を追ってやって来た彼らに、疾風は目を細め柔らかな風を纏い淡く微笑む。 縋るような二つの視線は真剣に櫂夜の身を案じている様子である。 硬く強張った頬に、無理に平然を装う引き攣った口元。 ぐらぐらと揺れる不安を隠せずにいる瞳が二人の心情を切に物語っていた。
 そんな陽炎と朧を包み込むように、緑の匂いを乗せた風がそっと流れてくる。
 木々の間をすり抜けた風は清めの風であった。瘴気という名の毒に触れた大地を慈しむように、 疾風は己自身の力で風を生み出していた。
「顔色は幾分か良いようですが……もう暫くは休んで頂きましょう」
「…はい」
「疾風様がそう言うのなら」
 柔らかな声で疾風が告げるも、二人はどこか不安げに顔色を曇らせ瞳を揺らした。
「陽炎、朧。櫂夜様は大丈夫ですよ」
 ふっと苦笑を零しながら疾風は陽炎と朧の後頭部をしなやかな指先で撫でる。 幼子を宥めるような優しげな感覚に、二人は僅かながら強張った表情を解し安堵を示したようであった。
 陽炎と朧は闘神である櫂夜の部下にあたる龍だ。
 二人は共に齢が未だ五百歳を過ぎない未熟な龍である。 しかし、彼らはいずれ一族の一角を担うとさえ言われる能力の持ち主でもあった。
 獅子のように逆立った焦げ茶の髪と金の眼を持つ少年、陽炎は次期闘神候補としてその能力を買われた身であった。 龍族にとって闘神は重要な位であるが、その能力を生まれながらに持つ者は少なく彼は稀な存在と言えた。
 対して、珍しい桃色の髪を肩口で切り揃えた少女、朧は一族内で唯一の癒しの能力を持った白龍であった。 少々内気で口数の少ない朧は、触れた相手の傷をたちどころにして癒す事の出来る特殊な力を秘めている。 あまりにも稀有な能力なため、彼女は部下という形で櫂夜の保護下に置かれているのである。
 一瞬の沈黙が流れた後、意を決した面持ちで「疾風様」、と朧が小さく声を漏らした。
「私の力を使えば……良いのではないでしょうか」
「朧、その気持ちだけで十分ですよ。確かにその能力は素晴らしいものです。 しかし、それは貴女の体へ掛かる負担が大き過ぎる。 櫂夜様は貴女の身に負担を掛けてまで癒しの術を施されようとは思われないでしょう」
「……でも、」
「やめときな、朧。そうまでして術を使えば、八つ当たりを食らうのは間違いなく俺なんでさぁ」
 冗談めかして言う陽炎は大袈裟な様子で頭を振り、朧の薄い肩をやんわりと叩いた。
 不満げな表情で何か言い返そうと口を開いた彼女は、そこで思い留まったように言葉を飲み込む。 そうしてこくんと頷き肯定を示した朧に、疾風が微笑みを浮かべもう一度彼女の髪にそっと指を通した。
「では、二人共。長に報告をお願い出来ますか? 今現在、瘴気は沈静化している模様である、と」
「報告を終えたら?」
「そのまま待機を。暫くして私もそちらに戻ります」
「了解でさぁ。朧、準備は?」
「…大丈夫」
「二人共、よろしくお願いしますね」
 疾風が柔らかな見送りの言葉を告げた瞬間、辺りに激しい風の渦が巻き起こった。
 木々の葉を吹き飛ばさんばかりに揺らし、やがて立ち上るように掻き消えた風の中には紅龍と白龍の姿があった。 それこそが陽炎と朧の本来の姿である。彼らは風と共に天へ昇り、 上空で輪を描くように空を泳ぐと次の瞬間には遥か彼方へ駆けていく。 空は龍にとって何よりも自身の存在を示す事の出来る自由な空間だ。
 悠々と空を駆ける龍達を見送った疾風は、木の幹に背を預け険しい顔のまま眠る櫂夜へ視線を移す。 急激な眠りを与えた分、彼の回復は早いようである。顔色が随分と良くなった。
「朱姫殿、そこにいらっしゃるのでしょう?」
 ふっと和らげた表情で背後を振り返った疾風が囁くように言った。
「お加減は如何です? 煉皇殿の守護があったとはいえ、貴女にも何らかの影響は出ていると思われますが……」
「大事ない。確かに力は落ちているが、これも一時的なものじゃ。 回復までにそれほど時間は掛らぬ。それよりも疾風殿、そなた等には礼を言わねばならぬな」
「いえ、これも櫂夜様に与えられた使命の一つ。貴女方がご無事でなによりです」
 疾風が振り返った視線の先には一人の女が立っていた。
 女の風貌はやけに派手なものであった。纏うは目に鮮やかな深紅の着物に黄金の帯、白地に桜の模様が刺繍された打掛。 高い位置に結われた髪は目が覚めるほどに赤く、簪代わりに美しく咲いた桜の枝を差している。
 時折風に靡く赤髪は結っていてもまだ長く、女の腰辺りまで達していた。 強気な性格が表れた黒い瞳と艶やかな紅色の唇。赤を基調としたそれは濃いという程ではないにしろ、 控え気味というわけでもない。しかし、それは彼女の美しさをより鮮明なものにさせていた。
 朱姫はふっと目元を緩め、艶やかな笑みを浮かべる。 彼女の視線は木の幹に背を預け意識を沈ませた櫂夜に注がれているようであった。
「しかし、その男は真に愚かじゃな。助けられた事に対しては素直に礼を言うが、 気を乱すまで疲労を溜めては本来の力を振るう事すら儘ならんはず」
「ええ、返す言葉もありません。貴女の仰る通りです」
「……先ほど飛び立った二頭は暫く戻っては来ないようじゃな?」
「はい。彼らは少々手の掛かる問題児ですが、聞きわけは良いですからね」
「ならば……櫂夜。いい加減下手な芝居は止めるのじゃ。とうに目覚めておるのじゃろう?」
 幼子を咎めるように言う彼女の声色には穏やかさと呆れが半々ずつ織り交ざっている。
 疾風の顔にも、それは同等であった。 彼は苦笑を浮かべつつ、瞼の下りた櫂夜の顔をちらりと覗き「困った方ですね」、と小さく笑った。その目はひどく優しい。
 ぴく、と櫂夜の薄い瞼が震えるように動く。同時に形良い眉が忌々しげに顰められた。
「……ったく、余計な事は言うもんじゃねぇだろ」
 低い呟きと共に瞼の下から真っ青に澄んだ瞳が現れる。
「疾風。お前もお前だ、端から気付いてやがったな。わざとらしいんだよ」
「ではお止すればよろしいですか? そう易々と人の言葉に従う貴方ではないでしょうに」
 青い目を細め、眠りから目覚めた櫂夜は零れ出る欠伸を噛み殺し立ち上がる。その足が一瞬ふらついた。
 がっ、と木の皮に爪を立て櫂夜は気丈にも膝を付く事はなかった。それは彼の矜持が折れていない証拠である。 唇を噛み締め自らの力で立ち上がる彼は、どこまでも誇り高い闘神なのだ。 白く震える櫂夜の指先を見やり、疾風は満足げに瞳を伏せた。
 櫂夜の目元には未だ薄っすらと隈が残っているようであった。 しかし、彼はそれを振り払うかのようにしっかりと地に足を下ろし木に触れた手を離す。 闘神の意地とも取れる様子に朱姫はひっそりと溜息を吐いた。
「お主は、変わらぬな。愚かなまでに強情な奴じゃ」
「そういうお前はどうなんだ。瘴気の毒は抜け切ったのか?」
「ふん。聞くまでもないじゃろう」
 艶やかな紅の唇が三日月のように緩やかな弧を描く。
 蠱惑なその様に櫂夜は不敵な笑みで応え、青の目に爛々とした光を灯す。 それは闘神としての覇気を完全に取り戻した苛烈な龍の目であった。
「今、瘴気は一時的に治まっている。だが、元を絶たねぇ限り意味はない」
「そうじゃのう。出処が消えぬ限りは、全くの無意味じゃ」
 櫂夜の言葉に軽く応じる朱姫は細い指先を口元へ運び、ふと考え込むかのような仕草を見せる。 紅の乗った唇がきゅっと引き結ばれ、勝気な瞳は真剣さを帯びた。
 朱姫に呼応するかのように、櫂夜の放つ気配が徐々に膨れ上がる。
 武骨な掌が腰に提げた刀の柄を辿るように握り、存在を確かめる。闘神としての証がある事。 それが櫂夜の心を躍動させ、早く、早くと忙しなく急かしていた。 囁き、叫び、脈打つ鼓動が耳鳴りの如く鼓膜の内側を刺激する。櫂夜は、そうする事で己の存在意義を見出す事が出来る。
「お前ならどうする?」
「知れた事。お主と同じ考えじゃ」
「は、だろうな」
 湧き立つ激情を抑え込んだ櫂夜の声色は唸るように低く、それでいて聞く者に安堵を与える強さを秘めていた。
「―――疾風」
 絶対的な声に名を呼ばれ、翡翠の龍は鮮やかな色合いの目をそっと開く。
「俺は東の森へ行く。奴らの手を借りるのは癪だが、これはすでに俺達一族だけの問題ではない。 お前は陽炎と朧を追い共に長へ報告を。……後は、分かるな?」
「ええ。お任せ下さい」
「さすがは俺の兄上だ。朱姫、行くぞ」
 黒髪を靡かせ櫂夜が颯爽と足を踏み出す。
 彼の腰に下がった黒塗りの鞘が櫂夜の意思に共鳴するかのように小さく震える。 その背を追い、朱姫は芳しい花の香りを残し木々の合間へ姿を消し去った。
「ご武運を」
 やがて、蒼い龍は再び空へと舞い上がる。



表紙