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生温く湿った風が嘲笑うかのように、細い少女の輪郭を撫で駆け抜けていく。
気だるげな足取りで少女は歩いていた。剥き出しの尖った地表が足裏を傷付けようとも、 彼女は歩みを止めようとはしなかった。ささくれ立った固い地面が容赦なく少女の裸足の柔肌を浅く裂き、 そこから薄っすらと血が滲んでくる。 そこで一旦足を止めた少女は、傷だらけのその箇所を見つめるように小さく俯いた。 「……大丈夫」 大して深くもない傷は、彼女に痛みを与えない。 むしろ、その傷が彼女にもたらしたものは胸の内をじわりと広がる安堵であった。 ほっ、と胸を滑り落ちていく安心感という見えない塊。 彼女にとって、それは自分自身を形作るために必要不可欠のものだった。 自分が自分であるという証拠であり、確かに存在している証拠なのである。 たとえ、それにどんな障害が伴おうとも少女は構わない。彼女は心の底から安堵だけを欲していた。 少女は胸の前できゅっと掌を組み、絡ませた指へ唇を寄せる。 「そう……まだ、大丈夫」 微かに動いた唇から発せられた声はいっそ哀れなほどに弱々しく、吹いた風に攫われ跡形もなく消え去った。 それが再び、彼女の胸に不安の火種を灯そうとする。 緩く頭を振り、胸に宿った火種を無理矢理に掻き消すと少女は止めていた足をたった今思い出したかのように進め始めた。 一歩を踏み出す度に裸足の足には新たな傷が一つ、また一つと増えていく。 風化により鋭く磨かれた小石が少女の足裏に食い込む。 それでも少女は、顔色一つ変えることなく歩みを止めようとはしない。 突き刺さった小石は容易く少女の皮膚を裂き、彼女の白い肌を鮮やかな血で汚した。その赤色は白によく映えた。 さすがに痛むのか、彼女は自身の足を気遣うかのような視線を送る。 足を止め、刺さった小石を躊躇いもなく引き抜くとさすがの少女も眉間に小さな皺を作った。 詰めた溜息をひっそりと零し、血に濡れた小石を出来る限り遠くへと放り投げる。 「だから、もう………戻ってきて」 こつんと乾いた音を立て転がった小石は、荒んだ大地に突き立つ無数の刀にぶつかりその形を崩した。 □ ■ □ ■ □ 鬱蒼と覆い茂った木々から成る東の森の奥深く、白斗が暮らす境内よりもなお深い場所にその泉は存在していた。 こんこんと湧き出る清水が作りあげた円形の泉は、森を育むための重要な水源である。 地下を巡っては豊かな緑を育て上げ、泉で身を休めるためにやって来た獣達には澄んだ水を分け与える。 水底が見える程に透き通ったそこには水生の生き物達も多く、東の森の豊かさを象徴しているかのようであった。 この森へ二人の鬼がやって来たのは昨日の事である。 それからすでに一晩以上が経ち、辺りは黄昏時に差し掛かかっていた。 森の中は薄暗く、尚且つあちらこちらに木々の根が突出しているため非常に足場が不安定だ。 しかし、本来の姿が獣である白斗にとってはそれらの障害など気に留める程ではない。 夜目が利く獣の赤い瞳は薄闇など物ともせず、人型をとっても軽快な足は真っ直ぐに澄んだ泉を目指していた。 「水寿」 低く静めた白斗の声が辺りに響く。 泉の中央には鋭く切り立った大きな岩がそびえ立っている。青々とした苔がびっしりと生え、 水草も芽吹いた岩は水生生物の隠れ家である。 その岩の影で白斗の呼び声に反応するように、一人の少女がするりと音もなく姿を現す。 「久しぶり。ここは相変わらず良い場所だ」 「おや……これは、白斗様。このような場所にまでいらっしゃるとは、一体どうなさりました?」 少女は袖口で口元を隠し、上品な笑みを浮かべながら切り立った岩に腰を下ろした。 彼女が纏うのは色鮮やかな唐装束だ。朱や金が入り混じったそれは、彼女自身が持つ華やかさを更に彩っていた。 腰まで流れる緩やかな黒髪に、涼やかな顔立ちを飾る翠の目がよく映える。 その目元には白斗同様に朱の隈取りが施されており、少女の象牙色の肌を殊更際立たせていた。 儚げに見える容姿の少女と向かい合うように、白斗は泉の淵へ腰掛ける。 水寿からそっと視線を逸らし、穏やかな水面を覗き込むとそこには群れを成した小魚が忙しなく泳いでいた。 澄んだ水はどれほど小さくとも命を育むものだ。懸命に生きる小さな命が愛しく見え、白斗はその指先で水面を弾く。 急に波立った事に驚いたらしい魚達は慌てた様子で逃げ惑う。 それを視界に留めたまま白斗は「聡い君は気付いているだろう?」、と穏やかに囁いた。 「察するに、瘴気の件ではないかと」 「君は話が早くて助かるよ。……そう、瘴気についてだ。先日、櫂夜がこの森を訪れただろう?」 「瘴気の発生が多発しているのですね。闘神殿はお疲れのご様子でしたが……」 「彼は強情だからね。まったく、仕方がない奴だよ」 白斗はわざとらしく肩を竦め、泉に浸した指をそっと引き抜いた。 つ、と指先から水面に起こる波紋が緩やかに広がり、訪れた一時の沈黙に溶けていく。 「―――君に頼みたい事がある」 ふ、と持ち上がった赤眼が水寿を射抜いた。 妖狐の目は真剣な色を帯び、真っ直ぐに泉の主である水寿を見つめる。 普段の気楽さが抜け切った赤の目は、ただ見つめられるだけで背筋がぴんと張り詰めるほどに強い。 それこそ、気を抜けば一瞬で飲みこまれてしまうであろう強者の目だ。 広大な森をその身一つで治める白斗は水寿にとって敬う心と恐れの念を同時に抱く相手である。 「私に出来得る事なれば、喜んでお引受けいたします」 「ありがとう。君になら安心して任せられるよ」 しかし、彼女もまた強い目を持つ蛟であった。翠の瞳は凛と白斗を見やり、薄紅の唇が艶やかに弧を描く。 その毅然とした態度こそが彼女の持つ強さである。 逸らされる事のない翠の目を満足した様子で眺め、白斗が小さく頷いた。 「任せるとは言っても、そう難しい事じゃあないんだ。…悪鬼を早々に討伐しないと大変な事になる。 しかし、肝心の闘神は力が弱っていてあまり余裕がない。 あれだけの瘴気を抑えてきたんだ、奴が回復するまでもう暫く時間が掛るだろうね。 しかも、櫂夜は悪鬼の居処を把握出来ていない。……水寿、僕の言いたい事が分かるかな?」 「まさかとは思いますが……白斗様自ら討伐に参加なさるのですか」 「正解。もっとも、僕自身に悪鬼を抑える力はない。あれは闘神が持つ特殊な力だからね。 僕は彼の仕事を手伝うだけだ。その間、この森を留守にする事もあると思う。 その時は君と凛の二人で僕の代わりを務めてほしい」 「されど白斗様、それは……」 驚愕に顔を強張らせた水寿が震える声で何かを言い淀む。 続く事のない彼女の言葉に白斗は苦く笑い、おどけたように肩を軽く竦めてみせた。 彼女が告げんとした言葉の意味を察し、気負いはないのだと僅かでも示しておく。 「水寿……もう二百年も昔の話だ。僕は平気だよ」 「…しかし、闘神殿の許可が必要なのでは?」 「勝手が許されない身である事は承知の上だ。何かしらの咎めを受けるかもしれない。 ……けれど、見過ごせないよ。この僕だからこそ、余計にね」 窘めるように返す白斗の目からは強者の色が消え、代わりに懐古と諦めが強く浮かび上がっていた。 遠い記憶を見つめては、それが二度と手に戻らぬものと理解している眼差し。 そこには支配者としての意思はなく、白斗個人の感情が強く浮かんでいるようでもあった。 妖狐の目は不思議と穏やかであった。何の揺らぎも浮かべず、彼はただ水寿を見つめている。 「白斗様。……そのお話、お引き受けいたしまする」 森を治める白斗直々の命を無視は出来ない。第一に、彼女には白斗の言葉に背く理由がないのである。 翠の目を伏せ、水寿は凪いだ気持ちで妖狐の言葉を受け入れた。 彼の目に不安がないのだ。 それは彼女の躊躇いを吹き飛ばすに十分な理由であった。森の絶対的な強者が迷いない目で、 自身の治める土地を任せると言う。大き過ぎる信頼は、しかし彼女にとってこれ以上ないほどの誇りになる。 「ありがとう。凛一人だけでは、どうにも不安でね。君と一緒なら安心出来るよ」 「いえ……。白斗様こそ、無理はなさらぬように」 「分かっているよ。…あぁ、そうだ。この件を終えたら久しぶりに宴でも開こうか。 櫂夜や枷月、朱姫達も呼ぼう。もちろん君もだ、水寿。 僕が蔵に眠らせているとびっきりの酒を振舞って、朱姫に舞を舞ってもらおう」 「白斗様は宴がお好きですね。ええ、それは良い考えです」 「僕は楽しい事が好きだからね。酒も朱姫の舞も、どちらも好きだ。 それに、今度こそ櫂夜を酔い潰してやらなきゃ僕の気が済まない」 じわりと滲む白斗の意地の悪い表情はどことなく幼い。 悪戯を心から楽しもうとする明るい赤眼に、水寿は自然と笑みを誘われ口元を綻ばせた。 「白斗様、私のお願いを聞いてくださいますか?」 「構わないよ。何?」 彼は陽気な酒の席を好む。賑やかさと穏やかさの混じった優しげな酒は、白斗にとって一番の楽しみだ。 白斗は酒に滅法強く、酔い潰れる事などないに等しい。同じ森に生きる者として、 随分と付き合いの長い水寿は彼の趣向をよく理解していた。 しかし、そのような水寿であってもただ一つ、察する事すら出来ぬ彼の心情があった。 「私、二百年ぶりに白斗様の笛を聴かせて頂きたいのです」 「……水寿」 微笑と共に告げられた水寿の言葉に、妖狐の表情は一瞬にして凍り付いた。 両の赤眼は慄くように見開かれ、喉の奥からひゅっと乾いた音が響く。 指先に震えが走り、くたりと力が抜けていった。動かそうともただ震えるばかりで、力の入れ方が分からない。 恐怖に支配された白斗の表情からは血の気が失せる。 「ほら、そのような顔をなさる。…平気などと、嘘を吐かれてはなりませぬ」 「本当に……敵わないよ、君には」 「古来より女は強かで、殿方の嘘には敏感なのですよ」 冗談めかして翠の目を細め、彼女は穏やかな声で言う。その目に浮かぶは母性にも似た優しさと、僅かな憐憫である。 白斗は重い溜息を吐いた。脳裏に浮かぶ甘い毒の香りを振り払い、冷え冷えとした指先をきつく握り込む。 くっと顎を引き俯くと、澄んだ清水が再び目に飛び込んできた。逃げ去った魚達はすでに悠々と泳いでいる。 薄い唇を噛み、震える声で白斗は「僕は弱いんだ」、と囁くように言った。 「水寿。僕は、弱いよ。二百年も昔の事を未だに引き摺っている。母上からこの森を受け継いだ時、強くあろうと誓った。 なのに、なのに僕は……母上に教わった笛を奏でる事が怖い。母上の笛の音と共に浮かぶ過去の記憶が、怖い。………僕は、本当に臆病者だ」 「それは違います、白斗様。あなたはお強い方です。…母を亡くした子の悲しみを、一体誰が咎めましょう。 あれから立派にこの森を支え続けたのは、白斗様ご自身ではないですか」 「……ありがとう、水寿。悪いね、弱気になってしまって。うん、大丈夫。 今は瘴気の事を一番に考えなければいけないからね。…僕は、平気だよ」 緩やかに顔を持ち上げ、白斗は蒼褪めた顔で気丈に笑みを浮かべる。 その表情はぼろぼろに傷付き、それでも泣き叫ぶ事を許されぬ幼子そのものであった。 □ ■ □ ■ □ 「南も、討たれたか」 急速に失われた毒の気配に男は淡々と言葉を吐く。 まるで毒そのものが打ち消されたかのように感じられなくなった気配は、どうやら例の闘神の仕業のようだ。 さすが、と言うべきか。数多くの瘴気を生み出し彼を疲弊させようとも、 闘神の勢いを殺す事は出来ぬらしい。男はふ、と短い息を零す。 「しかし……十分だ。弱り切った闘神など、どうにでもなる」 男は歩く。 迷いや、躊躇い。不安、恐怖。その全てを感じる事なく、男は当てもなく進む。 目的はない。ただ、何かを探し求めるように足が動く。 男を突き動かすもの。それは、男の中に渦巻く強い憎しみだった。 底の見えない憎悪が男の足を進ませる。打ち捨てられた刀や鎧は上手く避け、 大地の固さを確かめるように一歩ずつ踏み出していく。角の尖った小石は男の足裏や甲を傷付けるも、 薄く皮膚を裂くばかりで血が流れ出す様子はない。むしろ、 男は自身の足が傷を負っている事にさえ気付いていないのであろう。男の視線はただ、一心に前を見据えていた。 荒廃した大地。しかし、この場所も元は豊かな緑に恵まれていた事を男は知っている。 「……何故、」 柔らかな陽光が降り注ぎ、生き物達の気配で溢れていた頃は確かにあった。 穏やかに時が過ぎ、何者にも邪魔出来ない平和がそこにあった。 ――――それを人間達が奪っていった。 土地が荒れ、死んでいくまでにそう時間は掛からなかった。 瞬く間に草木は枯れ、生物の姿が失せ、命という命が消えていった。 その全ての元凶が己の欲に目が眩んだ人間達の無益な戦のせいなのだ。 男は問う。 希望など知りもしない乾いた声色に咎めるような響きを乗せ、そのまま空に投げ出される。 「穏やかに生きる事が何故、許されない? ただ、それだけを望んだというのに」 多くを望んだ覚えはない。 ただ一つ、母なる大地と共に生きる事を望んだ。豊かな土地を育み、その行く末を守り続けたかった。 一体、それのどこが悪なのか。 赤い瞳を伏せ、男はふと息を詰める。気を抜けばすぐにでも膨れ上がる激情は容易く男の神経を昂らせようとする。 それを押し込めるように浅い呼吸を繰り返し、最後にひと際長く吐き出した。 熱の籠った吐息を合図に、男の赤眼がゆっくりと姿を現す。 彼の目は、荒廃した大地の更に先を見つめていた。 「奪われたものを、奪い返す」 男は知っていた。 この大地の先にあるなだらかな峠を越えると、そこには人間達が暮らす小さな村がある事を。 「時間がないのだ、邪魔はさせぬ。……そう、誰であろうとも」 |