浮かない顔で膝を抱え、石段の一角に腰を据える凛之助の姿は誰の目から見ても明らかに気落ちしていた。
普段の快活さは消え去り、どんよりとした空気が鴉天狗の少年を取り巻いている。 長閑な森の風景の中で彼の様子はしばし異様なものであった。
 凛之助の背後には丸くなったその背を静かに見つめる銀の虹彩があった。枷月である。
「右京と左京が探していましたよ。遊び相手がほしい、と」
「……氷榁姉がおるやろ」
「おや、幼子は遊び相手が多ければ多いほど良いと知っているんですよ。…どうしました。らしくありませんね」
 至極穏やかに問う枷月は銀の虹彩を細め、音もなく凛之助の隣へと並ぶ。
 気配の薄い痩身がすぐ傍に佇み、次の言葉を待っているのだと気付いた凛之助は余計に体を丸め拒絶を露わにした。 膝の間に顎を乗せ、紫水晶の瞳は下へと続く石段の先をぼんやりと見つめる。鉄鬼の口から短い溜息が零れた。
「凛。気持ちは分からなくもありませんが、貴方がそのような様子でどうするのです。 白斗は自らの意思で悪鬼の討伐に加わるのです。 留守の間、この森を貴方に預けると言った白斗に要らぬ心配を掛けるつもりですか」
「……っ、そないなつもりやない! けどっ、」
 噛み付くような勢いで枷月を仰ぐ凛之助の目には確かな不安が渦巻いていた。 ふるり、と揺れる薄紫色の目には普段の覇気が宿っていない。
 凛之助の様子が目に見えておかしくなったのは、彼の兄弟子である白斗が自ら悪鬼の討伐に名乗り出た直後からだ。 元々浮き沈みの激しい気性を持つ凛之助であったが、彼の前向きさは枷月ですら呆れるほどだ。 人目も気にせず肩を落としているとは、あまりにも彼らしくない事である。
 ふ、と枷月の瞳が細くなる。銀色の虹彩に宿るは悲哀や憐憫、そして慈しみが混ざった複雑な色であった。
「分かっています。……少々、意地の悪い事を言ってしまいましたね」
「鬼の旦那……わいは、」
「凛、貴方は不安なのでしょう? 当時の彼をよく知る貴方なら、それも仕方のない事です。 二百年前の、あの頃の白斗は本当に酷かった。…私は今でも忘れていませんよ。 あの頃の彼は生きながらに、死んでいましたから」
 その瞬間、紫水晶の瞳が弾けるように揺らぎ悲観的な色が濃く映る。
「どうやら、貴方も忘れてはいないようですね」
「旦那……」
 恐ろしいまでに美しく整った顔で、枷月は優美に微笑んでみせる。 鋭さを秘めた星色の目と、夜空で淡々と輝く月に似た金糸が常にない温かさを抱えていた。 それが何とも気恥しく、凛之助は枷月からそっと視線を逸らす。
 忘れてはいない。忘れるはずがない。
 凛之助にとって白斗は同じ師を仰ぐ者同士であり、何より心から兄として慕っている存在だ。 訳あって親のない凛之助は、その三百年と少しの人生の大半を師や白斗の傍で過ごしてきた。 時に優しく、時に厳しく育てられてきた凛之助は彼らの存在があったからこそ今を生きている。
 だからこそ、凛之助は知っている。兄である白斗が傷付き、一度壊れてしまったその日の事を誰よりも知っている。
「……鬼の旦那。わいは、別に不安なわけやない」
 忌々しく纏わりつく甘い毒の香りを思い出す。甘く優しく、それでいて残酷なまでに全てを奪う毒の匂い。 大地すら侵すそれが生物に与える影響は大き過ぎた。
 そして、凛之助の脳裏を最も占めるのは朱に染まった悲しげな瞳であった。
「あの時に白兄が浴びた毒は、今でも残ったままや。 龍の旦那が言うには死ぬまであのままやって…。わいな、白兄の目の色が好きやった。 泉みたいに澄んだ琥珀色で、ほんまに綺麗やった。……今の色も、紅玉に似て綺麗やと思うけど。けど、あの色は、」
「―――悪鬼の証」
「…せや。あの色は、白兄を傷付ける。わいはそれが怖い。 悪鬼討伐に参加して、また白兄が傷付いたら。もし、何かが切っ掛けでまた毒に呑まれでもしたら…… 今度こそ、白兄はこの森ごと消される。白兄の大事なもの全部巻き込んで消されるんや。それが怖くて、わいは……」
「ですが凛、悪鬼を野放しにしてはいずれ人間に危害が及びます。 いえ、人間を憎んでいる悪鬼だからこそ危害を加えようとするでしょう。 そうなれば、人間にとって私達のような妖全てが悪意を持っている存在だと思い込むはずです。 とすると最悪、彼らは私達を消しに掛るでしょうね。凛、それは貴方も分かっている事でしょう?」
「分かっとる! けど旦那っ、」
「………まったく、貴方は相変わらず手の掛かる」
 溜息と共に吐露された声色は何の抑揚もなく平坦であり、鋭さを帯びた冷たい響きを秘めていた。 するりと胸に飛び込んだ刃にも似た言葉に、凛之助は目を丸くして隣に佇む枷月を再び仰ぎ見る。
 そこにあるのは、冷たく凍えた星色の瞳であった。
「だ、旦那……」
「怖い? ……ええ、そうでしょうね。私は当時の白斗を貴方ほど見ていたわけではない。 私は鉄鬼であり、放浪の者。対して貴方は幼い頃より彼の傍で育ってきた。 幼子の貴方に彼の変貌ぶりは、それは恐ろしいものだったのでしょう。 私も、その辺りは理解しているつもりです。しかし…いい加減、彼を甘やかすのは止めにしたらどうですか」
 温度のない銀色の虹彩が凛之助を射抜く。
 鋭く切り込む刃のように、冷えた枷月の声は凛之助を貫いた。 するりと滑り込み、音もなく鴉天狗を刺す言葉は嫌味なまでに的確だ。 凛之助の顔からはすっと色味が消え、下唇が細かく震える。
 鉄鬼の特徴でもある銀の虹彩が穏やかに細くなる。それは一見、淡い微笑のようにも見える。 しかし、凛之助を映す枷月の目には一切の温かさも宿ってはいなかった。暗く冷たく、全てを寄せ付けない恐ろしい瞳だ。
「彼にいつまで過去を引き摺らせますか。いえ……彼はいつまで、過去に引き摺られるつもりですか。 傍にいた貴方なら、分かるでしょう? 白斗はあの過去を乗り越えなければならない。身に残した毒と共に、生きて行かねばならないのです」
 まるで夜空に浮かぶ月のようだと、凛之助は竦み震える体を押さえながらぼんやりと思った。
 優しく闇夜を照らしたかと思えば、生き物全てを奈落の闇へと突き落とす顔も見せる残酷な月。 だからこそ、この鉄鬼は美しい。月の寵愛を一身に受け生きるという謂われは、凛之助の目には偽りない真実に見えた。
「それを凛、貴方が怯えてどうするというのです? 本来、貴方は彼が立ち直るまで支えなければならないはず。 それが出来ずして、彼の弟弟子を名乗ると?」
「…あの状態の白兄に、下手な慰めはできへん。それは今も同じや。 旦那は、それでも乗り越えろ言うんか? 傷口に塩を塗り込むような真似をして?」
「それで彼がこれ以上傷付かないと分かれば、迷いなく。 今回の瘴気は人間の起こした戦の影響で生まれた悪鬼の仕業でしょう。私達は戦場に向かうつもりです。 白斗も自らの希望で同行するようですから、良い機会なのでは?」
「それでも! 目の前で親を亡くした奴に、それはあんまりや…っ…!  わいみたいに親の顔も思い出せんほど餓鬼やったならまだましかもしれへん、 けど、白兄は……! 旦那は、旦那には白兄の気持ちが分からんのか!」
 所詮凛之助は、鉄鬼の名を背負う枷月よりも下位の妖である。歳は何百という差があり、力も弱い。 歳を重ねるにつれ力を蓄えていく妖にとって、目上の存在に刃向うなど本来ならば言語道断だ。
 それでも、鴉天狗の少年は侵食する恐怖を振り払って牙を剥く。
 まさにその通りだと、鉄鬼の言葉に頷いてしまいそうになる自分が腹立たしい。 彼の言葉が真実であると、それは凛之助にだって分かっている事なのだ。
 確かに、白斗は己の過去を乗り越えるべきだと思う。しかし、亡くす痛みを知る者にとって枷月の言葉はあまりにも痛い。 瘡蓋の取れない傷をその上から新たに引き裂くようなものである。 血は再び滲み出し、必要以上の痛みに頭を抱えなければならないのだ。 大事な兄弟子に、そのような思いをさせたくはない。せめぎ合う二つの思いに挟まれ、凛之助は我を失う。
 無我夢中で叫んだ言葉は、凛之助の迷いだ。本当に兄弟子は過去を引き摺ったままなのだろうか。 彼の傷は、本当に癒えずにいるのだろうか。己の思考すら掬えずにいる凛之助は、 自身がひどく取り乱している事に気付かなかった。
「ええ……、そうですね。私には分かりませんし、理解も出来ません。 気付けばそこに存在していた私にとって、親というものは無縁ですから。 私はただ流れるだけ。何者の束縛も受けず、そこに存在するだけの器です」
 静かに零れた感情の起伏がない枷月の声は、まるで打ち水のように凛之助の頭を冷たく叩いた。
「いつ訪れるかも知れぬ終わりを待ちながら、ただ流される器なのですよ、私は。 待つばかりの人生に血を分けた兄弟などない。ましてや、親などある訳がない。 だから私は、貴方達二人の思いなど理解出来ません。…分かってやりたいという気持ちは、あるのですがね」
「旦那…違う。わいはただ……、」
「私は、もしかすると貴方達が羨ましいのかもしれませんね」
 そう言うと、枷月は涼やかな虹彩をそっと伏せこれ以上何も言う事はないとばかりに口を閉ざす。
 風が吹き、彼の黄金の髪がさらさらと流れる。ただそこにあるだけで眩しく思えるその色は優しく、 ひどく物悲しい空気に包まれていた。輝きが増すほどに、自らの孤独をも高めていく哀しい月。 鉄鬼の冷え切った声が頭の中で反響し、凛之助はきつく唇を噛み締め後悔に顔を歪めた。
 からん、と高下駄を鳴らし凛之助は立ち上がる。紫水晶の瞳が縋るように枷月の姿を捉えるが、 視線が交わる事は叶わなかった。
「旦那……堪忍な」
 重く言葉を吐き出した後、凛之助はその場から逃げるように姿を消した。

 ふわりと、音もなく立ち去った凛之助の気配が完全に消え去った。枷月は閉じた瞼を引き上げ、視線を空に移す。
 橙に染まった空は、黄昏時を告げていた。藍色が燃えるように広がる橙色に忍び寄り、 やがて訪れる闇夜の支配を告げている。絶妙な色具合を見せる空はひどく静観として美しい。 我先にと輝き出した一番星が揺れるように光る。
「まったく……」
 豊かに茂った木々の間からは気の早い月がそっと顔を覗かせていた。枷月は深く長い溜息を吐く。
「盗み聞きとは随分と趣味が悪いようですね、氷榁」
 咎める風ではなく、淡々とした調子で紡がれる声色は姿のない一人の鬼へと注がれた。
 しんと静まり返った森の中、草木を掻き分ける音がざっと響く。 遠慮の混じったそれは一歩近付く度に足を止め、諦めたように再び足を進める動作を繰り返した。 近付き、止まり、その気配は段々と確かなものへ変化する。
「……ごめんなさい」
 草木の間から零れ出した薄氷色の影が気落ちした声で呟く。枷月は、声の方角へと視線を滑らせる。
 ばつの悪い顔でそこに立っていたのは鬼の少女、氷榁であった。 黄昏時の橙に照らされ、色の薄い彼女の髪は燃えるような朱に染められていた。 一見すると冷えた印象のみを与える薄い青は、今では影もなく塗り潰されている。
 彼女らしからぬ朱色の存在が枷月にはひどく不快だ。
 氷榁に赤は似合わない。彼女に似合う色は、清廉な青。 透明の一歩手前、踏み込んでしまえば一瞬にして濁ってしまう純粋な清水の色である。 触れてはならぬ清らかさがあるからこそ、彼女の青は美しい。
「枷月、ごめんなさい。そんなつもりではなかったの」
「…いえ、私の方こそ少々きつい言い方をしてしまいました」
 華奢な肩を委縮させ、氷榁は申し訳なさそうに瞳を伏せる。罪悪感から震える睫毛が弱々しく、 これ以上の責め立てはあまりにも哀れであった。
 緩やかに頭を振り、落ち着いた声色で言葉を返す。銀の虹彩はしっかりと氷榁を見つめ、 許しを乞うかのように淡く微笑んだ。枷月の涼しげな微笑に鬼の少女がほっと息を吐く。
「右京と左京の姿がありませんね。どうしました?」
「遊び疲れて眠ってしまったの。今は境内で休ませているわ」
「貴女は疲れていないのですか」
「平気よ。私はあの子達の話し相手になっていただけだもの。それに私、子供は結構好きなのよ。……隣、良い?」
「ええ、どうぞ」
 遠慮深い彼女のささやかな申し出を断る理由はなかった。
 す、と足音も立てずに枷月の隣へと身を寄せた氷榁の肩からふっと力が抜けた。 枷月の言葉に余程緊迫していたのだろう、彼女の薄い肩にはどこか居心地の悪そうな気配が残っている。
 優しく、繊細な鬼の氷榁。枷月の知るこの少女は、いつだって隣に立ちたがる。
 そっと寄り添うように、気付けばそこに立つ彼女を枷月は随分と昔から見つめ続けてきた。 言葉はなく、当たり前のように隣に在る事。その事実に安堵の感情を抱く自身を枷月は認め、受け入れている。 ただ、その理由だけは未だに理解が出来ない。
「……私は、残酷なのでしょうね」
 唐突に零れ出た枷月の言葉に氷榁は小首を傾げた。
「何故、そう思うの?」
「凛之助との話を聞いていたのなら分かるでしょう? 私が良かれと思った事は、彼らを随分と傷付けるようです。 それも深く、最も踏み込んではならぬ場所を。……分かっていながら何度も繰り返す私は、 酷な事ばかりを彼らに求めてしまう」
「私にはそうは見えないけれど」
「そうでしょうか。現に、私は凛之助を傷付けた。これは事実でしょう」
「かもしれない。けれど、それは貴方の優しさよ」
 しゃん、と転がる鈴にも似た儚げな声色が明確な強さを持って枷月の鼓膜を貫いた。
「優しい? ……私が?」
「ええ、もちろん」
「馬鹿な事を………、それは貴女の思い違いです」
 確信を持って告げた彼女の言葉を枷月は虚を突かれた表情で否定する。
 ゆるゆると首を振った枷月を氷榁は真摯な眼差しで見つめていた。ただ真っ直ぐに、真剣に。 頼りない体躯の少女に浮かぶ確信の色は枷月が戸惑うほどに強く、ひどく純粋な輝きを持っていた。
 儚さ故に美しい鬼の少女。命の存在が少ない荒野に生まれ出た、澄み切った蒼い存在。彼女は、嘘を吐かない。
「いいえ、枷月。貴女は優しいの」
「氷榁……」
「白斗さんや凛君が間違っているわけじゃない。私達は本当の意味で彼らの気持ちを分かってあげる事が出来ないけれど、 彼らの抱えた辛さを想像する事はできる。辛くて苦しくて、きっと今でもその傷は癒えていないの。 誰だって痛む傷には触れてほしくないはずよ。……でも、私は貴方が間違っているとも思わない」
「それは、何故です?」
「貴方は誰もが避けようとする傷口に、あえて触れるの。触れて、きちんと前へ進めるように叱咤する。 時には厳しい言葉すら使ってね。貴方は分かっていないようだけど、それって簡単にできる事じゃないのよ」
 微笑みにすら見える柔和な顔つきで氷榁が言う。決して大きくはないはずの彼女の声は枷月の鼓膜を突くように刺激する。 だというのに、彼女の声色には心地良さすら潜んでいた。
「それがその人のためにならないと分かっている貴方は、背を押してくれる。 どんなに痛くても、前に進む事を教えてくれる。それができるのは、 貴方がその人の事を真剣に思っているからでしょう? 枷月。貴方は、とても優しいわ」
 するりと、何の抵抗もなく耳に届く言葉が枷月に滲み込む。
 滲み込むだけ滲み込んで、それでも収まり切れない言の葉。じわりと満ちていく感覚は覚えのないもので、 枷月は珍しく困り果てた様子で眉を下げる。滅多に見る事ができない彼の表情に氷榁は満足げに瞳を伏せた。
 彼女の言う優しさなど、枷月は知らない。しかし、氷榁が嘘を吐いているとも思わない。
「……貴女は、難しい事を言う」
「そうかしら」
「氷榁、私は……」
「いいのよ枷月。無理に理解しようと思わなくても。ただ、私は貴方の優しさを知っている。それだけは忘れないでいて」
 囁くような声だった。
 澄んだ鈴の音色に似た、儚く優しい声色だ。優しいのは彼女の方だと枷月は思う。
「ですが、氷榁。私は私のためにならいくらでも残酷になれる鬼ですよ」
「……前にも一度聞いたけれど、枷月」
「はい」
「それは、本当に貴方が望んでいる事なの?」
「……ええ。私は長年待ち続けていました」
 終わりのない長い時が枷月にはある。延々と移ろい続け、終わった瞬間に始まる果てのない命。 終わる事を許されず、与えられない命。それは最早、『命』とは呼べない。
 だからこそ、枷月は待っていた。
「あの悪鬼は、私が殺します。―――私自身を終わらせる為にも」



表紙