うそとほんとうとうその あいだ
(御伽草子:陽炎、疾風)


 闘神が留守の間、陽炎は絶壁の淵に腰を据え眼下に広がる海原を眺める事があった。
 潮の匂いが全身を包み、獣の唸り声に似た強い風が吹き荒れる場所。 それが、闘神である櫂夜のお気に入りだ。果ての無い海を遠くまで見通せる絶景は確かに気持ちが良い。 が、四方八方から打ち付ける強風に体は終始揺られてしまい、 快適な場所とは程遠いものがある。おそらく、あの闘神以外は好き好んで訪れるような場所ではないだろう。
 だからこそ陽炎は、幾度も足を運んでしまうのだ。
 この場に腰掛ける櫂夜が一体何をしているのか。優雅に煙管を咥え、何を思うのか。 どこまでも深い青色の瞳は、一体何を映しているのか。
 そういった諸々の事を陽炎は知りたいと思う。触れてみたいとも思う。 ただ、その理由ははっきりとしておらず、陽炎自身何故そういった事を考えてしまうのかが分からずにいる。
 憧れではないはずなのだ。それだけは、誰よりも自分が一番に理解しているのだから。
「陽炎」
 風に紛れ、柔らかく落ち着いた声色がそっと耳元に流れてくる。
 背後から聞こえた声にそっと首を巡らせると、 そこには澄んだ翡翠色を纏う疾風が穏やかな目で陽炎を見つめていた。 薄っすらと微笑んだように見える柔和な顔立ちは強風に長い髪を攫われようとも全く動じていない。
「……疾風様」
「やはりここでしたか、陽炎。貴方も随分とこの場所が気に入っているようですね」
「別に……そんなつもりはないんですがねぃ」
 優しげな眼差しに居心地の悪さを覚えてしまうのは何故だろう。 澄んだ翡翠の瞳を見返す事が、今はどうしようもなく苦痛に感じてしまう。 理由は陽炎にも分からない。ただ、彼の綺麗な目に映り込む自分を見ていたくないと思う。
 本来なら、この身は誰の目にも映らず一生を終えるしかなかったのだ。 それ以外の選択を許されていなかった陽炎としては、未だに他人の目に触れていまう自身に違和感を覚える。
 疾風からすっと目を逸らし、遥か先に見える水平線に目を凝らす。 背中に柔らかい視線を感じながらも、素直に振り返る事など陽炎には出来なかった。
「百年ほどでしょうか」
「え……?」
「櫂夜様が貴方を次期闘神の候補者とされてから、百年ほど経ちましたね」
「あぁ……そういえば、そうですねぃ」
 疾風からの唐突な言葉に意表を突かれるも、確かに彼の言う通りだ。 陽炎が次期闘神候補として選ばれたその日から、気付けば百年近くの時が流れている。
 長命である龍にとって百年という時間はそう長いものではない。 陽炎にしてみてもそれは同じで、この百年は長いと感じる事はなかった。 むしろ、あっという間に月日が流れてしまったようにも思う。長いというよりは、驚くほどに短い百年だった。
「疾風様」
「はい、何でしょう」
「どうして、櫂夜様は俺なんかを選んだんですかねぃ。 あと数百年も待てば、俺なんかよりずっと相応しい候補者が生まれたと思いませんかぃ」
 聞いた話によると、櫂夜は闘神に就任して間もない時期に陽炎を次期候補者に選んだという事だ。 それが異例の決定である事を陽炎は理解しており、自身でも痛いくらいに感じ取っている。 たとえ陽炎が闘神の位を継ぐための条件を満たしていたとしても、普通ならあり得ない選択なのだ。 だというのに、あの現闘神は迷う事なく後継者を選んだ。
 この百年が短いと感じてしまうのは、櫂夜のせいだとしか思えない。
 彼の下に就いて以来、時の流れは異常な速度で通り過ぎていった。多くのものに触れ、多くのものを感じた。 櫂夜の周りにはたくさんのものが溢れて、その一つ一つが陽炎にとっての経験に変わった。 その全てが、陽炎を変えていった。
 時折不安さえ覚えてしまうほどのものに包まれ、苦しくなる。
「何で、俺なんでしょうかねぃ……。俺はあの時、櫂夜様が嫌いで仕方なかったのに」
 強引で我の強い性格も、尊大で不敵な態度も。折れる事のない自信に満ちた青い瞳も。
 彼の持つ全てがあまりにも眩しいから、気に食わなかった。近付かないでほしかった。 目も眩むような存在感に、小さな自分など一瞬で掻き消されてしまうと思ったから。
「本当に、嫌いだったんでさぁ。……なのに、」
 櫂夜は陽炎を選んだ。向けられる感情の意味を理解していながら、あの闘神は躊躇いもしなかった。
 如何なる時であっても自らの意志を曲げない櫂夜は陽炎にとって直視出来ない太陽に似ている。 強烈な存在感に目を焼かれ、それでも手を伸ばしてしまうのは愚かな事だろうか。 頭では分かっているはずなのに、体と心が勝手に動き出す。勝手に、鮮明な存在を求めようとする。
 そうやって自分の何もかもがばらばらになり兼ねない状態が陽炎は恐ろしかった。 元をただせばそれらの原因は全て櫂夜にある。全てが、彼のせいだ。
 変わっていく自分が不安で、苦しくて、怖くて仕方がない。 こんな思いを強要させる彼なんて、嫌いだった。いっそ、櫂夜と出会ってさえいなければ―――
「陽炎」
 宥めるように響いた声が陽炎の耳朶を打ち、じわりと沁み込んでいく。 荒れ狂う風が支配する絶壁の淵で、疾風の存在だけが春風のように穏やかだ。
「貴方は、本当はもう分かっているはずですよ」
「疾風、様…」
「櫂夜様はあの通り、素直な方ではありませんから分かり辛い事も多いでしょう。……ですが、優しい方です」
 長年連れ添ってきた翡翠の龍は甘い声で言う。
 信頼と尊敬と、計り知れない愛情を織り交ぜた声色。この世でたった一人、 櫂夜に全てを預けた疾風の声は優しく陽炎を包み込み、そっと背中を押した。
「貴方はすでに答えを知っている。ならば、あとは選ぶだけですよ」



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