久遠の恋人は根本的に真面目な性格をしていると思う。
 真夏の鋭い日差しを見ると暑さにぐったりする半面、不思議と気分が盛り上がってくるのは自分だけだろうか。 クーラーの効いた部屋で何気なくファッション誌のページを捲っていた久遠は 窓の外に見える青々とした空を視界に映し、ひっそりと溜め息を吐いた。
 夏といえばイベント事が目白押しだ。
 近所では小規模だが夏祭りが行われるらしく、 早くも久遠は出店をぶらりと巡るつもりでいる。 その三日後には花火大会も控えているから、浴衣の準備は万端にしておかなければいけない。 海水浴に行くのもいいし、近場のレジャー施設にある室内プールに出掛けるのも夏らしくていいだろう。 夏らしいといえば、遠出をして野外ライブに参加してみてもいいのかもしれない。 元来お祭り騒ぎの好きな久遠にとって夏は恰好の遊び時だ。
 折角の夏休みをとことん楽しみたい久遠は、再び溜め息を零し視線を室内へと戻した。
「ヒロ君、まだ?」
 久遠の視線の先には恋人である千尋の姿があった。ただし、彼は久遠を見向きもせず後ろ姿ばかりをさらしている。
「ヒロ君ってばー」
「……もうちょっとなんで待ってください」
 夏祭りや花火はもちろん、海やライブも楽しみたい。それは当然、恋人である千尋と一緒に。
 なのに彼は久遠に背中を見せてばかりで構ってもくれない。 千尋が今真摯に見つめているものといえば、テーブルに広げられた冊子と分厚い教科書だけだ。
 高校生である千尋には当然夏休みの課題がある。 真面目な彼は一日のうち数時間ほどは必ず課題に取り掛かる時間を作り、その間は冊子と教科書以外に目もくれないのだ。
 久遠にしてみれば、それはものすごいことだ。夏休みは遊び耽り、 結果としてぎりぎりなってから課題に取り掛かっていた自分とは雲泥の差だと思わず感心してしまう。 毎年同じことを繰り返してはそれでも懲りなかったのだから、高校時代の自分は本当に救いようがなかった。 夏休みの課題など、記憶をどう掘り返してみても期限内に提出できた試しがない。
「もうちょっとって、あとどれくらい?」
「あと三問……くらい?」
「えー……」
「今日はこれで終わりますって。だからもう少しだけ、」
 待ってくださいね、と言いながら千尋がちらりと久遠を振り返った。 どこか困ったようにも見える笑みを浮かべているのが可愛らしい。 そんな顔をされると反射で「待ってるよ」と返してしまうから、自分は大概彼に弱い。
 すぐに課題へと向き直った千尋の背を一通り見つめると、久遠は再び手元の雑誌に視線を落とした。
 といっても、意識は常に千尋の方へ向けている。 さらさらとペンを走らせる音や、教科書を捲りながら問題を眺めている様子は当然のように久遠の視界に収まっている。 難しい設問でもあったのか、首を傾げてみたり頬杖をついてみる様はどことなく子供っぽくて微笑ましくあった。
「久遠さん。今日、何か予定入ってますか」
 ペンの動きを再開させた千尋がふいに口を開く。集中している彼を思い、 出来る限り声を上げずに黙っていた久遠としては嬉しい不意打ちだ。
「特にないよ。どうして?」
「いや……だって、いつも待ってもらってるから…。予定がないなら、これ終わったらどこか出掛けませんか」
「え、」
「……駄目、ですか」
「いやいやまさか! 大歓迎というかむしろ俺も誘ってみようかなって思ってたくらいで」
 何を勘違いしたのか、途端に沈んだ声へ変わってしまう千尋の言葉を久遠は慌てて否定する。 予想だにしていなかった彼の申し出に反応が遅れてしまうとは、迂闊だった。
 千尋は普段から自分の希望をあまり口にしない。 あれがしたい、これがしたい、などという言葉はほとんど聞かれず、 二人でどこかへ出掛ける場合は毎回のように久遠が誘い出していた。 決して大人しい性格ではないが、千尋は久遠に対して自己主張をしないのだ。
 もちろん、久遠はその理由を知っている。千尋は口にはしないものの、 自身が年下であることを気にしているらしい。彼は、妙な我が儘を言って久遠に子供だと思われたくないのだろう。
 年下といっても久遠と千尋は二歳しか離れていない。 世間にはもっと年が離れた恋人同士が溢れるほどいるというのに、それでも彼は意識せずにはいられないのだろう。 久遠から見れば些細なことだが、千尋の中ではとても大きな問題なのだ。
 恋人はとことん甘やかしたいタイプの久遠は、当然ながらそれでは物足りない。 精神年齢であればむしろ、自分の方が低いくらいだ。気にする必要など全くない。
 しかし、それを口で言っても千尋には中々伝わらないことも分かっている。 だから久遠は何かある度に彼を誘い出し、とことん甘やかす。口で伝わらないなら行動で示すほかない。 そうやって、千尋の中にあるしがらみを少しずつ壊すことにした。
「久遠さん?」
 彼からの誘いがあるということは、少しは壊すことが出来たのだろうか。 だとしたら、これほど嬉しいことはないと久遠は思う。
「そうだね、どこに行こうか。ヒロ君はどこか行きたい場所ある?」
「俺、観たい映画があるんです。アクション物のシリーズの新作で……前にテレビで予告あってたから気になって」
「じゃあ観に行こうか。ついでにホラー映画も観る?」
「……絶対嫌です」
 ホラー映画が苦手な千尋にからかうように言ってみると、じとりとした目で久遠を睨んできた。 ここで機嫌を損ねるわけにはいかない。すぐに「冗談だよ」、と笑いかけ久遠は開いていた雑誌をぱたりと閉じる。
 そうと決まれば出掛ける準備をしなければ。
「ヒロ君、もうすぐ終わるんだっけ? 俺はその間に着替えようかなー。 あ、金も下ろさないと財布ん中空だった気がする」
「あと一問です。金下ろすんなら、途中にコンビニありますよ。 …前に久遠さんが言ってたカフェ、映画館の近くでしたよ。近くまで行くんだから、寄ってみませんか?」
「え、もしかしてヒロ君それ調べてくれたの?」
「だって久遠さん探してたんでしょ」
 つん、と尖った声音はただの照れ隠しだ。 ねめつけていた視線は途端にふるりと揺れ、すぐにテーブルの上へ向いてしまった。 実に分かりやすいその反応は容易く久遠を喜ばせ自然と頬が緩んでしまう。
 千尋はいつだって久遠を喜ばせてくれる。
 以前は久遠が探していた専門書を偶然見つけたからと買ってきてくれた。 お互い一人暮らしなため疎かになりがちな食事も、 多く作りすぎたからと言ってお裾分けにきてくれる。だが、本当は違うのだ。
 専門書は普段利用している書店に在庫がなかったため、機会があった時に遠出して別の書店で探そうとしていたものだ。 それを千尋は学校帰りに隣街にまで探しに向かったようだった。 同じアパート暮らしで登下校を共にしている睦月から聞いた話だ、間違いない。
 食事はわざと多めに作っているに決まっている。 一度彼が料理をしている場面を目にしたことがあるが、千尋は目分量ではなくきちんと量を計ってから調理していた。 真面目な千尋が作りすぎるということはないだろう。ということは、はなから久遠に分けるために作っているのだ。
 千尋はそれらのことを久遠が気付いているなど思いもしないだろう。 久遠も、わざわざ告げる気はない。だが、受け取るばかりでいる気もない。
 本のお礼には彼が好きなケーキをいくつか買ってきてそれとなく渡した。甘いものが好きな千尋は嬉しそうだったし、 抜け目なく自分の分も合わせて買ってきていた久遠はテレビを見ながら一緒にケーキを食べることができた。 食事のお裾分けをしてもらった時も、当然千尋と一緒に食べることにしている。 一緒に食べようか、と誘った時のはにかむ顔が堪らないのだ。
 千尋は知らない。彼の行動一つ一つが久遠を喜ばせていることを。
「でも驚いたな。まさかカフェのこと覚えていてくれたなんて」
 ほくほくとした気持ちを隠すことなく、千尋の背にそろりと忍び寄る。 気配に気付いた千尋が揺れた眼差しのまま、久遠を見た。
「久遠さん、好きそうだし。ああいう店」
「そうだね、好きだよ」
「……なんで近付くんですか。俺、これでも急いで終わらせようとしてんですけど」
 むっとした声にはわざとらしい響きがあった。本心から嫌がっているわけではないことがすぐに分かる。 だからこそ久遠は遠慮せずに強気に出られる。
 ずい、と身を乗り出し彼の耳元に口を寄せる。 今にでも触れ合いそうな距離に千尋が息を呑み、肩を竦ませたのが分かった。
「千尋」
 声を低めて名を呼べば、彼はぎゅっと眉根を寄せ困ったように久遠を見る。 その表情が、久遠を堪らない思いにさせる。
 もっと、近付きたい。
 そう思った瞬間に、久遠は千尋の薄い唇に自身のそれを重ねていた。 ふわりと触れ合うだけのキスに、それでも千尋は驚いたのか小さく体を震わせた。 その時、無防備にも彼の唇は薄っすらと開く。
 誘われるように、久遠はもう一度彼の唇にキスを送る。 次はさきほどよりもずっと長く、けれど深くまで求めることはしなかった。 そうまでしたら際限なく欲しくなる。だから、ここは少し我慢しよう。
 食むように吸い付き、チュッと音を立てる。離れる瞬間が名残惜しくて、味わうように千尋の唇をぺろりと舐めた。
 時間にしてみれば、ほんの僅かなものだろう。しかも触れるだけの軽い口付けだ、 久遠としては少し物足りない気もする。だが、当の千尋はたったそれだけのことに呆然とした目を潤ませている。 彼はいつになっても不意打ちのキスに弱いのだ。
「邪魔、しないでください」
 千尋はふっと顔を背け、久遠の存在を無視するようにペンの動きを再開させた。 告げられた言葉に可愛げは全くない。が、その耳が真っ赤に染まっていることくらい久遠は気付いている。
 分かりやすい照れ隠しがまた、久遠を喜ばせていることなど彼は知りもしないのだ。
「そんなに邪魔だったかな?」
「……分かってるくせに」
「何を? 俺は鈍いからはっきり言ってくれないと分からないよ」
「………もういいです」
 とぼけてみれば千尋はつれない言葉を返してきた。 朱に染まった顔では何の意味もない上辺だけの台詞に、久遠は口元を綻ばせ密かな笑みを零す。 そんな風にわざとらしい態度を取ってみせるから、久遠は彼を構いたくて仕方ないのだ。
「ヒロ君、まだー?」
「久遠さんが邪魔しなかったら終わってたんです。……くそ、使う公式分かんなくなった」
 意地でも振り返ろうとしない千尋の背にそっと微笑む。 目当てのカフェに彼好みの美味しいケーキはあるだろうか。口にこそしないが甘党の千尋だ、 食べたがるだろうことは容易く想像できる。
 にこにこと嬉しそうな顔でケーキを頬張る千尋の姿が頭に浮かんだ。
 甘く疼く感情が胸の奥から溢れ出し、久遠は急かされるような思いでその場から立ち上がる。 逸る気持ちを抑えることは難しい。だから、千尋には一刻も早く最後の一問を解いてもらいたい。 そうすればきっと、彼は気まずそうに瞳を揺らしながら久遠を振り返ってくれるに違いないのだ。


君が知らない幾つかのこと
(日向千尋、駿河久遠)