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「 」
疲労のため深い眠りに就いた高雅が遥か昔に僕が捨てたはずの名を呟いた。 古い名前だった。罪の証として消した名だ、今はもうその名前で僕を呼ぶ者はいないだろう。 若い龍達は、そもそも僕が名を捨てた事さえ知りはしない。僕は、徹底的に『僕』という存在を抹消したのだから。 高雅は、夢を見ているのだろうか。遠い昔の、懐かしい夢を。 僕がまだ『僕』であった頃の夢を。その夢は、高雅を苦しめてはいないだろうか。 彼にとって、幸せな夢であればいいと思った。強く、願った。 「 」 一族の長として常に厳しい表情を湛えている高雅からは想像もできないような柔らかな声色で、再びその名を呼ばれる。 無性に泣き出したくなるような声だった。 あまりに、あまりにも優しい声で、自分の全てを投げ出し縋ってしまいたくなるような。 遥か昔に捨てた名を、今でもそうやって呼んでくれるなんて、思ってもいなかった。 『いいですか、二人共。よくお聞きなさい』 僕と高雅に名を与えてくれた人の声が、ふいに頭の奥底から響いてくる。 忘れようもないその人の声は、僕と高雅を強く結び付けてくれた大切なものだった。 『まずは高雅。貴方はどのような時であっても高みを目指しなさい。 我ら一族は誇り高き龍の者、その誇りを踏み躙らぬよう強い志を持ちなさい。 気高い魂を持つ貴方になら、きっとできるはずです。……そして、』 ふっと動く視線は柔らかに僕を捉え、春風のように穏やかな笑みを浮かべた。 『貴方は一族を導く担い手となりなさい。 遥か先の道までも明るく照らし出すような、そんな存在になりなさい。 柔軟な思考と広い視野を持つ貴方なら、不可能ではないでしょう。ねぇ、 』 記憶の中に住むその人の声が僕を呼ぶ。 愛しげに、心の底から慈しんでくれているのだと分かる声色で僕達の名を呼ぶ。 遠い昔の記憶は、今でも僕の心を掴んだままだ。 『貴方達の名には、そんな願いを込めました。意味は忘れてくれても構いません。 けれど、私が願いを託し付けた名である事は、心に留めていてほしいのです』 だからこそ痛い。 彼の人の願いを踏みにじってまで、僕は名を捨てたのだ。 彼が願いを込めてくれたものであり、 高雅との繋がりをより強固なものにしてくれたたった一つのものを、過去に置いてきてしまった。 僕は高雅を裏切り、彼の人も裏切った。罪深いこの身を許してほしいとは言わないし、もとよりそんな権利はない。 「……高雅、」 それでも、ふとした瞬間に胸をよぎる思いは遠い昔の温かな記憶を望んでいた。 「僕は、とても身勝手だ」 高雅の意識がない事で緩んだ僕の思考は、ぺらぺらと口を動かし勝手に言葉を紡ぎ始める。 数百年という間封じ込めてきた願いを、無意味な事だと分かっていながら言葉にする。 薄紫色の髪。閉じられた瞳も同じような色をしていて、目つきは僕よりも少々鋭さがある。 いつだって眉間に皺を寄せ厳しい表情を作っているのは、 一族のために何をどうする事が最善の策であるのかと暇さえあれば模索し検討し続けているからだ。 高雅は、そういった真面目な男なのだ。 彼という存在が僕の誇りだった。 僕の罪さえ受け入れてくれる一つの魂を共有し合った無二の存在が、僕をこの世に留めてくれた。 「君に………呼ばれたいと思うのだよ」 自ら捨てた名を彼に呼ばれ、心が震えた。もっと、と欲が顔を覗かせ今以上を求めようとする。 「おかしいだろう? 捨てさせてくれと懇願したのは、僕の方だというのに」 もっと。 もっと、もっと。 僕の名を呼んでほしかった。他の誰でもなく、彼に呼んでほしかった。 ―――叶わない願いだと分かっているから、尚更心は望んでしまう。 『高雅、僕は……僕を捨てる事にしたよ。もう二度と戻らないよ』 僕自身を罰するために捨て去ったものを今さら求めるなんて許されはしない。 それは、僕の過去に示しがつかない。許されてしまう事を、僕の心は望んでいないのだ。 心身の疲れからか、色艶をなくした高雅の薄紫色の髪にそっと手を伸ばす。 乾いた感触が指先から伝わり、零れた毛先が高雅の頬をするりと撫でていった。 それでも、彼が目覚める様子はない。よほど深い眠りに就いているようだった。 もう暫くは、このままでいてほしかった。長として多忙な日々を過ごす高雅に、少しでも休息を与えたかった。 きっと彼は起こさなかった僕を責めるだろうけど。 この世で唯一の存在が大事だ。代わりのない、僕にだけ与えられた半身。 彼に懐かしい名を呼んでもらう事は、二度とない。許されるのは夢の中だけだ。 彼の意識が夢の中へと沈んでいる僅かな時間のみ、僕は過去の『僕』を思い出す。名を辿る事が出来る。 泡沫と共に消えゆく時間が、僕にとっての小さな救いだった。 「僕が下した決断だ。後悔はない。…それでも、時折潰されそうな思いに駆られる僕は………弱くて狡いのだろうね」 |