目的があっての外出じゃなかった。 ただ、骨董アパートの一室に籠っていたところで、何もすることがなかっただけの話だ。
 外はもうすっかり暗くて、でも夜空に雲は掛かっていなかった。 風に肌寒さを感じたけれど、問題はない。雨じゃないなら濡れることもないし、 外出する際に困ることは一つもない。そもそも、その時の僕はたとえ雨であろうと外に足を向けただろうけど。
 しかし、目的もなく外出したのは悪かった。
 目的が、ないのだ。買い物をするわけでもない、食事は特に必要としていない。 誰かに会いに行くこともない。目的がない。やることがない。外に出たところで、 部屋に籠っている状態とまったく同じだ。
 だから僕は歩いた。どこに行くわけでも、何かをするつもりもなく。ただ、目的なく足を動かした。
 時間にしてみれば一時間程度の無意味な行為だった。 この行為に意味を見出だそうとすること自体が無意味だと思える、そんな時間だった。
「いー兄」
 無意味な行為にほどよく解れた僕の体は、聞き覚えのある声を拾った。
「今、帰りですか? 夜遊びにしてはやけに早い帰宅ですけど」
 アパートの前に人影があった。
 暗がりの中で薄っすらと分かる下がった目尻。夜風に揺れる黒い前髪。 ほっそりとしていながら、均整のとれた体つき。バイト帰りなのだろう、 見慣れた緑色の作業服姿が僕の目の前に現れる。
 ふわりと香る煙草の匂いを僕は知っている。同じ骨董アパートの住人、萌太くんだ。
「萌太くんには、僕が遊び歩いてきたように見える?」
「まぁ、見えませんね。どうやら手ぶらのようですし」
 にこり、と。綺麗な顔をした萌太くんは綺麗に笑った。 妹の崩子ちゃんも綺麗な顔の作りをして、そういうところはとても似ている兄妹なのかもしれない。 ただし、萌太くんには、形にし難い偏屈さや捻じれた何かが前面に現れているようにも思う。
 まぁ、僕が人のことを言える義理でもないんだけど。
「萌太くんは、ここで何を?」
「部屋で吸うと崩子が嫌がるので、仕方なく」
「……数、減らしたら? 体に悪いよ」
「何というか、もう癖になってるんですよね。それに、今さらだと思いません?」
 わざとらしく肩を竦めてみせる萌太くんは悪戯な声でそう言い細く煙を吐き出した。 さらさらとした夜風に乗り、紫煙が流れていく。
 流れて。
 流れて。
 消えていく。
 萌太くんのやることに僕が一々口を挟む必要はない。 そう言ってしまうとたぶん崩子ちゃんに睨まれてしまうかもしれないけど、それはそれ。 というか、きつい目で睨んでくる崩子ちゃんは、元が綺麗な顔立ちだから結構可愛いと思うのだ。
「まぁ、ほどほどにね」
「いー兄こそ。あんまりふらふらしないでくださいね」
 萌太くんの言葉に、僕は曖昧に頷くしかなかった。彼も、確実な答えなど必要としていないはずだ。
「じゃあ、僕は先に戻ることにするよ」
 僕は萌太くんの目の前を通り過ぎ、アパートの自室へ向かう。 鼻先を掠めた煙草の匂いはそう悪いものではなかったけれど、確かに崩子ちゃんは嫌がるだろうなと、何となく思った。
 部屋に戻ったところで、何をするわけでもない。何もない部屋。 何も、求めない空間。僕の生活空間らしいと言えば、それまでの場所だった。
「あ、そうだ。忘れるところでした」
 あと一歩。
 あと一歩足を進めてしまえば、僕の視界から萌太くんが消えてしまうような距離。 そんな唐突なタイミングで声を上げた萌太くんを、僕は何気なく振り返ってしまった。
 短くなった煙草を指で挟み、ゆるりと瞬く萌太くんの垂れ目は僕を見ている。 目が合うと、彼は、静かな調子で夜風に言葉を乗せてきた。
「いー兄―――」





や さ し い お か え り






 萌太くんの笑みは、綺麗だ。声にも、綺麗な響きがある。
 だけど今の一瞬見せた小さな、まるではにかむような笑みは萌太くんらしくない、 ある意味年相応の可愛らしいものだった。
 だから僕は釣られるように、気付けば返事を返していた。
「うん。ただいま、萌太くん」