防寒用の厚い外套を身に纏い、ゼロスはフラノールの宿をそっと抜け出した。
 扉を開けた途端、針のように突き刺さる冷たい空気が体を包み、無意識に震えが起きる。 吐く息は白い。しんしんと降り積もった雪と同じ色だ。
 昼間はほんの少し先すら見えないほど吹雪いていた空模様も、今は嘘のように穏やかで静けさに満ちている。 聞こえる音といえば、踏み付けた雪がきしきしと上げる小さな悲鳴程度だ。 寒さも一層厳しくなる夜間に出歩く人間はまず見当たらない。
 柔らかに積もった真新しい雪の上には、ゼロスの足跡だけが点々と続いていた。
 キィン、とした冷気が支配するフラノールは空が澄んで見える。 四六時中降り続ける雪のおかげで灰色の雲に覆われる日は多いが、今夜は珍しく空に雲が掛っていない。 夜空にキラキラと星が瞬き、月は銀色に光っている。明日は天気が良さそうだった。
 ゼロスは街の入り口をも通り過ぎ、 辺り一面が白に塗り潰された広い平野の一角で足を止めた。そして、目の前に広がる景色を眺める。
 時折吹く風が赤い長髪を攫い、視界の端でちらちらと揺れていた。 それが目に付いた途端、ゼロスはあからさまに顔をしかめ小さく舌打ちをする。嫌でも視界に入る赤色が腹立たしい。 白い景色の中、ひどく目立つ赤い髪が血のように見えた。
 ふ、と短く息を吐き出す。指先はすでに悴んで、じんじんと疼いている。 そのうち感覚までなくなりそうだった。それが何となく、雪に覆い隠されていくのだと錯覚させる。
「寒ィ……」
 冷たい指を両手で包みながら、ゼロスは消え入りそうな声で呟いた。
 雪が積もれば自然と眠りが浅くなり、悪い夢を見る回数が増えていく。 白い雪の上に真っ赤な血が飛び散る場面が何度も、何度も繰り返し目の前に広がる。 ついさっきにも、また同じ夢を見て目が覚めてしまったのだ。
 もう一度眠りに就けばよかったものの、どうしてもその気にはなれず衝動的に宿を抜け出してしまった。 そろそろ戻らなければ自分を探しに来る人物がいる。この状況では、何と言い訳すればいいのか分からない。 言い逃れすら、おそらく許してはくれないだろう。
 ぼんやりとしながら取り繕う言葉を考えていると、 再び冷えた風がゼロスの頬を打った。フラノールの夜は、本当に寒さが厳しい。
「ゼロスッ」
背後から名を呼ぶ声に、ゼロスは首を巡らせそっと振り返った。そこには、思った通りの人物がいる。
「部屋にいないと思ったら、何やってるんだよっ」
「ロイド」
 僅かに目を吊り上げ厳しい顔をしたロイドが、真っ白な絨毯を踏み荒らしながら駆け寄ってきた。 彼はすぐ傍まで近付くと強引にゼロスの手首を取りぐい、と引っ張る。 雪に足を取られてしまったこともあるが、引かれた瞬間数歩よろめいてしまうくらいに強い力だった。
 ゼロスが大して抵抗もせずそれに倣うとそのままロイドは来た道を戻り始めた。手首を掴む手は、離れない。
「……探した?」
「探した! お前、いきなりいなくなるの止めろよな。…心配するだろ」
 そう言うロイドの顔を覗き見ると、耳や鼻の頭が真っ赤に染まっていることにゼロスは気付いた。 よく見ると、肩で息をしていることも分かった。
 掴まれた手首に視線を落とす。しっかりと握ってくるロイドの指先は赤く、しかし、ひどく温かかった。 掴まれたそこからすっと何かが溶けていく気がした。この温かい手は、どんな氷をも溶かしてしまうのだろう。 それも、無意識のうちに。
「手、冷たいな」
 振り返りはしないものの、ロイドの声には気遣うような色があり彼が単純に心配してくれたことが分かる。
 それを余計なことだと一蹴するのは簡単だ。 むしろ、頭ではロイドの気遣いを否定している自分がいることをゼロスは気付いている。 余計なことをするな、お前には関係ない。そう言って、遠ざけようと一心になっている。
 だというのに、一番深い目に見えない何かは真っ向からロイドを受け入れようとする。
「そりゃ、お子ちゃまは体温高いって言うし? 大人の俺様よりロイドくんの手が温かいのは当然でしょーよ」
「ゼロス」
「ん? 何よ?」
「無理して喋るなよ」
 子供だと思っていては、駄目だ。
 ロイドは子供だからこそ大人には決して踏み込めない場所へするりと飛び込んでくる。 相手に不快感を与えず、極々自然な形で。そしてロイドは、飛び込むことを恐れない。
「宿まですぐだからさ、そのままでいい。俺は適当に誤魔化されるのは嫌だ。だから、無理するな。 ……宿の人が明日は天気が良くなりそうだ、って。寒くないといいよな」
 何を、とは言わない。それは口にするだけ無意味なもので、どのみちロイドはその言葉を受け入れない。
 手首を引くロイドの指先に力が入る。ぎゅ、と掴んでくる手がそのまま掌にまで落ちてくればいいのに。 そうなれば、絶対に振り解くことは出来なくなる。自分はそれを拒否しない。
「……敵わねぇなぁ」
 吐いた言葉が湿っぽく震えていた。 寒さのせいだと思うには説得力がなくて、でも他に理由を考えることは少しだけ怖い。


白 の 檻
(だから、その赤い背中を見ずに降り積もった雪だけを見ていた)