高雅と生まれを同じくした双雲は能力に恵まれた人物だった。
 彼は頭脳明晰の切れ者であり、一族の中でも強い力をその身に秘めていた。 加えて、双雲は両の眼に特殊な能力を生まれながらに備えていた。 龍の一族にはごく稀にそういった力を持って生れてくる者がいる。彼は、その中でも特に力のある最上位にあたる存在だ。
 故にその能力の高さは遥か昔、双雲の全てを傷付け――――破壊した。





「高雅。少し、休んだ方がいい。顔色が悪いよ」
 珍しく落ち着きのある色を浮かべた双雲の声が耳に届き、 高雅は書面と睨み合いを続けていた視線を気だるげに持ち上げる。
 視界に飛び込んできたのは見慣れた双雲の姿だった。彼は高雅のすぐ傍にまで身を寄せ、 眉間にはいつになく深い皺を刻んでいる。飄々とした彼らしからぬ様子は高雅の手を止めるには十分な要素であり、 思わず「何か問題でも起こったか?」と切羽詰まった声まで上げてしまった。
 今現在、ただでさえ問題が山積みなのだ。 一族の長として日々を過ごす高雅は、諸々の処理に追われ手を空ける事が出来ない状態にある。 これ以上何かが起こってしまっては、さすがに手が回りそうにもないのだ。
 高雅の問いに気を悪くしたのか、双雲は器用に片眉を跳ね上げ「僕の言葉、聞こえなかったのかな?」と、 苛立ちを隠そうともしない声色で聞き返してくる。質問に質問で返すのはこの男の昔からの悪い癖だ。
「僕は休んだ方がいいと言ったんだよ。問題なんて起こっていない。 むしろ、収束に向かっているよ。瘴気の勢いは今のところ鎮静化している」
「そうか、櫂夜には無理をさせてしまったな」
「……昔から思っていたのだけどね、高雅のそれはわざとかな? もしそうならとんだ性悪だね」
「それはお前の方ではないか」
「全く君は何を言ってるんだい、こんなに素直で無垢な龍なんて僕以外そうそう見つかるものではないよ。 ……あのねぇ高雅。僕はこんな話がしたいわけではなくて、君に休んでもらいたいのだよ」
 聞こえていたからこそ避けていた言葉を再三告げられ、 さすがに無視するわけにもいかなくなった高雅は眉間を指先で解しつつ深い溜息を零した。
「お前がそうまで言うとは、我は余程酷い顔をしているのか」
「顔は問題ではないよ。大丈夫、今日も僕と一緒で素敵な男前だ。 ただし、その顔色だけはいただけないねぇ。自覚がないのなら、尚更だ」
 頭の回転が早い双雲は相応して口も上手く、時や場所に関係なくぺらぺらと喋り続けるような男だ。 今この時も、彼は普段通り饒舌に言葉を紡いでいるように見える。 しかし、その口調は普段のものより少しばかり早く、語尾には棘があるように高雅は感じた。
 はっきりと目に見える嫌味ではない。が、わざとらしく棘を含ませた物言いは逆に高雅の胸に引っ掛かり、 書面の文字を追うどころではなくなってしまう。
 何しろ、あの双雲が怒っているのだ。あまり感情を表に出さない彼が眉間に皺を刻むほどに、 強い怒りを向けてきている。それも、生まれてから一度も離れた事のない自分に対してだ。
「瘴気の勢いが落ち着いている間に、高雅も休んでおいた方がいいのではないかな?」
「そうは言っても、やるべき事がまだ残っているであろう。 櫂夜の働きがあってこそ、今の状態にまで持ち込めたのだぞ? 事後処理は我の仕事だ」
「そんなもの、それこそ後回しにすればいい。僕は高雅の心配をしているのに、 どうやら肝心のお兄様はちっとも分かってはくれないようだねぇ。 酷い話だ。心配のあまり僕の繊細な胸は張り裂けそうな思いをしていたというのにね。何という事だろう」
「……双雲、一体どうした?」
「どうしたもこうしたも、僕は純粋に高雅が心配なのだよ。なのに、どうして分かってくれないのかな」
 よく動く口は、最後には固く引き結ばれそのまま黙り込んでしまった。
 まるで拗ねている幼子のようだと内心高雅は苦笑し、凝った体を解すために大きく伸びをする。 一族の長として見せられた姿ではないが、生憎今は周囲に双雲以外の者はおらず人目を気にする必要はなかった。
「……珍しいね。そうやって君が姿勢を崩すとは」
「今はお前しかおらぬからな。さすがに他の者の目がある前では出来ぬが」
「そんな事を言ったら、正確には僕の『目』もないようなものだよ」
「お前の場合は『目』がなくとも見えるであろう」
 むっとした声で応える双雲を窘めるように、高雅は彼の視線を辿りその瞳をじっと見つめ返した。
 生まれを同じくした高雅と双雲は、その外見も瓜二つだった。 高雅にとっては甥にあたる存在の櫂夜ほどではないにしろ、 均整の取れた体つきは背後から見るとあまり区別がつかない。 癖の無い薄紫色の髪を肩に掛かる程度に伸ばしたところもそっくりだ。瞳の色も淡い紫で、 目つきは若干高雅の方が鋭いかもしれない。 しかし、その違いも些細なもので双雲の瞳も穏やかな紫の光を湛えている――――はずだった。
「けど、僕の場合は実際に物を見ているわけではないでしょう? だから『目』があるとは言えないのではないかな」
 本来、そこにあるはずの薄紫色の瞳は真っ白に塗り潰されてしまった。 白くて細い紐状の生地を幾重にも巻き付け、双雲はその瞳を完全に覆ってしまっているのだ。 まるで何かを封じるように、戒めるように。彼は、数百年前からその姿を貫き続けている。
 瞳は感情を映すものだ。怒りも喜びも、移り替わる感情をそのまま露わにしてくれる鏡のようなものだ。
 彼の感情が読み取り辛い原因の多くは隠れた瞳のせいだろう。 昔から掴みどころのない性格であったとはいえ、感情表現に関しては高雅よりも豊かで明るい男だったのだ。 それが今では非常に分かり辛く、判断がつけにくい。 一見、口元には穏やかな笑みが浮かんでいるようでも、 腹の底では何を考えているのか見当もつかないのだ。彼は、変わってしまった。
『高雅。僕は、捨てる事にしたよ。……何も出来なかった僕自身を、捨てるよ』
 そうする事でしか自身を保つ事が出来ない双雲を止めるわけにはいかなかった。 責めるわけには、いかなかった。高雅はただ、彼の存在を失くしたくなかったのだ。
 高雅と双雲は宵闇の迫った空と雲の間から生まれた。
 目の眩むような長い歴史を持つ龍族の中でも同じ魂を分け合って生まれてきた者は過去に数例しかなく、 先代達の戸惑いはかなりのものだっただろう。それでも彼らは二人を見守り、 一人前と呼ばれる年齢に至るまで導いてくれた。絶対的に個体数の少ない龍族は次世代の担い手を育むため、 時に厳しい教育を施す事もあり高雅と双雲の二人にもいくつもの試練が与えられた。
 心が折れそうになった事は両手の指では足りぬほどで、 その度に歯を食い縛って耐え抜いた。そうやって、二人並んで生きてきた。
 言葉にした事は、あまり多くはない。が、高雅にとって双雲の存在はなくてはならない唯一のものだ。 己の片割れ、もしくは己の半身。失ってはならない存在のために、高雅は自身に出来得る限りの事をやったのだ。
 双雲は彼の特殊な力で世界を『見る』事が苦痛だと言った。 しかし、その力は一族のためにも失えないものだった。だから、高雅は彼の生身の視力を封じるように言った。 せめて、少しでも苦痛に満ちた世界が視界に入らないようにと願って。
「……では聞くが、その見えていない『目』にすら我の顔色は思わしくないように映るのか?」
「当然だよ。君の今の状態はそれだけ酷い」
「だが、休んだところで仕事が片付くわけでもなかろう」
「あのねぇ、高雅。僕は一応長の補佐が仕事なんだけど、忘れてはいないかな」
「補佐役などした事があったか?」
「うーん、あまりない気がするけどねぇ」
「ならば大人しくしておけ」
「あっ、こら高雅。駄目でしょう、僕の話を最後まで聞きなさい」
 わざとらしく小首を傾げてみせた双雲に再び溜息を吐き再び書面に視線を落とした高雅だったが、 何故かその書面が目の前から消え失せてしまった。 横から伸びてきた手の中に目的のものが収まっている事を確認した高雅は、 やけに重い眉間を指先で抑えながら双雲を睨み上げた。
 鋭い視線など感じてもいないのか、双雲は飄々とした様子で口元に笑みを浮かべている。 自身が優位に立っている事を分かっているからこその表情だ。 先程まで漏れ出していた怒りはすっと顔を引っ込め、代わりに憎たらしいほどの余裕を纏い始めていた。
「君は今、休むべきだよ。でないと仕事の効率は悪くなるばかりだ。自分でも分かっているのではないかな?」
「しかしな……」
「はい、ということで少し休もうか。そりゃあ君の代わりにこれらの仕事を片付ける事は出来ないけども、 整理する程度なら僕一人で十分だろう? その間、高雅は眠っていなさい。でないと僕は本当に怒るよ」
 双雲の言葉尻にそっと怒気が灯る。冗談ではなく本気である事が窺える響きに、 さすがの高雅も閉口して素直に従うしかない。何しろ、双雲は相当頑固な気質の持ち主だ。 よく回る舌も相まって、たとえ高雅であっても言い負かされるに決まっているのだ。
 重い腰を渋々持ち上げ、高雅は一度自室へ下がる事に決めた。書面の内容はすでに頭の中だ。 筆を取る事は出来ないがその分頭の中で策を練れば良いだけの話である。
「後で様子を見に行くからね。休まないと承知しないよ」
 楽しげにも取れる声色が完全に高雅の一歩先を読み、見事な具合に釘を刺してきた。
「……鋭いな」
「僕と高雅の仲だ、読めて当然でしょう? さ、早く部屋へ。君は今、僕の相手をする必要はないよ」
 双雲が随分と機嫌の良い声色で言うものだから、高雅はこれ以上の抵抗を完全に放棄する事にした。
 彼は自分のためを思って執拗なまでに気に掛けてくれているのだ、その思いを無碍にする事はさすがに出来ない。
「分かったから、そう急かすな。……お前の言う通りだ、暫し休む事にしよう。その間はお前に任せる」
「ふふっ、お任せあれ。大事なお兄様の頼みともあればきっちり果たして見せましょう」
「ただし、何か起こった場合はすぐに知らせるのだぞ」
「分かっていますよ。櫂夜からの情報が入ればきちんと伝えるつもりだから、安心して」
 他に何か伝えるべき事はなかったかと思案する高雅を余所に、 双雲は意外にもしっかりと応じ大きく首を縦に振ってみせた。彼の姿に有無を言わせない力強さを感じ、 高雅はそこでようやく肩の力を抜く事が出来た。
 張り詰めていた神経と凝り固まった体が実に気だるく、途端に億劫な気持ちが湧き水のように溢れてくる。 緊張を解いた瞬間にこれなのだから、心と体は素直なものだ。
 気を抜いてしまったために自覚できた自身の不調が何とも情けなく、 高雅は足を踏み出す前に一度目を伏せ重い息を吐き出した。
「高雅。どんな長命種であろうと、僕達が生物である事には変わりないよ。無理をすれば体に不調をきたす。 当り前の事だろう? だから君はいかに無理なく長としての使命を果たせばいいのか、 それを考え実行すればいい。……生真面目さは君の長所だけれど、 勤めを果たすつもりならまずは自分自身を大事にする事だね」
 柔らかな声で窘めてくる双雲に返す言葉はなかった。悔しいが、彼の言う通りだ。 高雅は頭の奥にこびり付いた重石を振り払うように左右に首を振り、自身の身を気遣ってくれる弟の顔を見た。
 双雲の表情は穏やかだった。先程まで見せていた怒気はとうに身を隠し、微笑みにも似た表情を浮かべていた。
 一族の者は皆口を揃え言う。彼は全く読めない、得体の知れない者である、と。 高雅とてそれは否定出来ぬ事であると思うし、仕方のない事でもあると半ば納得もしている。 目元を完全に隠してしまった双雲は、確かに表情が読み取り辛い。 しかし、それは決して彼に表情がないわけではないのだ。
 双雲だって笑う。怒りを感じれば、それを彼なりに表現する。彼はただ、その表現法を変えたに過ぎない。
 己の過去と決別するために。壊れかけた自身を、捨てるために。彼は新たな自身を作り上げ、 他人が踏み込み難い空気を背負うようになった。当時はそれが唯一の事だった。 ただでさえ傷付いた双雲が身を守るためには、そうするしかなかったのだ。
「………そうだな」
「分かったなら、早く部屋に向かいなさい。それとも、僕がいないと寂しい?」
「あぁ、それはない。心配は無用だ」
「即答できるだけの元気はあるようで何よりだよ」
 そして高雅は双雲の思いを、願いを聞き入れた。
 自らの手で両の眼を封じた双雲に、高雅は一つだけ特別な術を施した。 それが魂を共有し合う半身に与えられる、たった一つの事でもあった。
 高雅は双雲の目元を覆う布に誰の手を使っても解除出来ない術を仕掛けた。 術を掛けた高雅自身も、決して解く事の出来ないものだ。
 何も見たくないと嘆いた双雲の眼球を潰してしまえば話は早かった。 しかし、高雅は何がっても彼を傷付けたくはなかった。だからこそ、施した術。 彼の願いを最大限にまで叶えてやれる方法を高雅は選んだ。
 その術を解くために力は必要ない。高い知能もまた、必要ない。 おそらく、人間の幼子でさえ簡単に打ち破ってしまうだろう。高雅が施した術は、実を言えばその程度のものなのだ。
(……しかし、お前には無理であろう?)
 ―――双雲が再び肉眼で世界を見つめたいと願えば容易く効果を失くす術だというのに。
(お前は決して望まない。お前は、お前自身を許せない。……いや、許されたくないのか)
 双雲が何を思って両目を捨て去ったのか、正確な所は高雅にさえ分からない。 高雅は事実を知っているだけだ。彼の心が傷付き、壊れ、それでも生きるために己を捨て去った事実を、知っているだけ。
 彼は過去に受けた傷を受け入れ、痛みを抱えたまま生きている。 それが罪の証なのだと、心の底から信じている。双雲の抱く盲目的までに強い思いは酷く悲しくて、 時折高雅の胸までもが痛んでしまう。双雲の抱える痛みはもっと大きなものだと知っているから、余計に心が苦しい。
 彼からその痛みを取り除いてやりたかった。しかし、大切な半身をどうにかして救いたいと願っても、 双雲は決して高雅の思いを受け入れてはくれないだろう。
(望んでもいない救いを与える事は、お前の心をただ踏み躙るだけになる)
 幾度となく自身の心と繰り返してきた問答はいつだって曖昧な形にしかならない。 そんな自身を恥じて、それでも答えに辿りつけないこの身は何と愚かなものだろうか。
「高雅?」
 中々動き出そうとしない高雅の様子を訝しみ、双雲が揺れる声で静かに呼び掛けてくる。 不安げで、けれどそれを悟らせまいとした声色には彼の気丈さが見え隠れしていた。
 高雅の身を案じてくれる存在は何も双雲一人ではない。 しかし、彼からの気持ちが一番心地良く不思議と安らぎを感じる事ができる。 飄々としいて、強かで、本当は弱い弟の本音。それはとても嬉しいものだ。
「……いや、少々思う所があってな」
「駄目だよ高雅。考え事は一旦止めて部屋に行くんだ。僕に何度言わせるつもりかな?」
「言われずともそのつもりだ。……双雲、」
 だから、同じものを返したいと高雅は思う。
 彼の心が少しでも軽くなるように、与えられるものを与えたい。 たとえ、それが決して叶わぬ事であると分かっていても高雅は随分と昔からその願いを持ち続けてきた。
 届かぬ願いほど空しいものはないと分かっている。しかし、理解しているからこそ願ってしまうのだ。
「お前も、無理はするな」
 曖昧な表情で、それでも双雲が薄っすらと微笑んだ。強かに見えて実は儚げな笑みはある意味彼らしく見えた。
 双雲の浮かべた表情に軽く目を伏せ、高雅は彼の肩をそっと叩く。 触れた指先から願いが伝わる事はない。それでも、高雅は強く願いながら重い体で自室へと向かうのだった。


(叶わぬと知りながら願い続けるこの愚かさを、きっとお前は知らない)


title by 選択式御題