カチ、カチ、カチ、と秒針の進む音がやけに大きく聞こえて、壁に掛かった時計を見る。まだ一時間も経過していない。
「………」
 カチ、カチ、カチ。一定のリズムで時を告げる音は眠気を誘う。 ただでさえ静かな教室は眠るには十分過ぎる環境なのに、俺は一体何をやっているんだ。 彼は心の内で静かに、しかし激しい葛藤と戦っていた。
「……っ………、」
 眠い。非常に、眠い。この静かな教室の空気に耐えられない。
 彼にとって教室とは勉学に励む場所ではなく、気の合う友人達と騒ぎに騒ぐ場所である。 勉強なんて二の次だ。青春を謳歌してこその学生だ。もう耐えられない。
「……あーっ!! もう無理っ、俺ギブ! ギブアップするぅ!」
「お前うるさいっ、本気でうるさいよ! やっぱ一時間も持たなかったなーっ!?」
「無理、無理無理だこんなの。イジメだ拷問だイジメなんだぁ!!」
「………ユウ、案の定タカが暴走し始めたよ」
 ある教室に数名の男子生徒が集まっていた。六つの机と椅子を移動させ、 それぞれ二つずつを向かい合わせにして引っ付ける。同じ高さの机はそれだけで広い台のような形になった。
「誰だテストなんて作ったやつ!? そんな不届きなやつは俺がぶっ飛ばしてきてやるんだー!!」
 そこで静かに教科書とノートを広げ、彼らは一週間後に控えた学期末テストの勉強会を開催していた、はずだった。
 約一名がその静かな空気に耐え切れず、結果として暴走を始めたのは、ある意味仕方のないことである。 彼はこの世で一番と言っていいほど勉強が苦手だ。文字が読めて足し算と引き算の計算が出来れば、 人間誰しも生きていけると半ば本気で思っている。 それゆえにテストの点は毎回目も当てられない結果になるわけだが、それでも苦手なものは苦手なのだ。
「50分か……。今回は意外に持ったな」
「前は25分だったっけ。ふふん、馬鹿だータカのやつ」
「みーちゃん!? 今俺の悪口言った!?」
「言ってないよー? ただ、タカは集中力がなくてどうしようもないな、って思っただけ」
「ジュンッ、みーちゃんが俺をイジメてる!?」
「そりゃあお前がどうしようもない馬鹿だからだよ。だーもう、 お前のせいでオレまで集中力切れたわ。ユウー、ちょっと休憩しよー」
「だな。おいタカ、目障りだからとりあえず座っとけ」
「ひでぇ、みんな俺に対してひでぇよ……」
 カタン、と椅子を鳴らしてタカは机に突っ伏した。残りの三人は教科書とノートを閉じ、 同時に盛大な溜息を吐く。彼の様子に呆れて何も言えなかった。
「お前、エースだろ?」
「勉強と野球は関係ねーよ……」
 くぐもった力ない声に、溜息すら忘れそうだ。
 彼らの通う葉條館高校は、現在テスト週間真っ最中である。全ての部活動は休みになり、 補習のないものは早々に学校を後にするか、もしくは図書室や空き教室でテスト勉強に勤しむのだ。 葉條館高校野球部の彼らも例外ではなかった。――ただ一人を除いて。
「なんか、あれだな、お先真っ暗とはこのことかな」
「ジュン、ナイス。今のタカにはぴったりな言葉だよ」
 机に突っ伏したままのタカ――本名を遠藤隆章という――は数学の問題集を完璧に放棄している。 問題を解いた形跡はない。それ以前に筆記用具すら準備していない。どこまでもやる気がないらしい。
「お前な…。それ、この前の授業で解いたはずだぞ」
「この前っていつ? 俺、数学は寝てること多いからさぁ」
「安心しろ。お前はどの授業だって安眠中だ」
 そんな彼の幼馴染みである渡辺祐希は、現在、治まりそうもない頭痛に悩まされている。 それもこれも、全てこの幼馴染みが元凶だ。溜息すら出てこない。
「なんだよー、やばいのは俺だけじゃないだろー?  ジュンだって俺とあんま変わんねぇぐらいじゃんか。特に数学とか、ジュンも苦手だろ?」
「全教科ダメなお前とオレを比べんじゃねーよ。オレには日本史という得意教科が残されているのだっ」
「俺にだって得意教科はあるんだぞ!? 馬鹿にすんなよっ!」
「じゃあ聞くけど、何?」
「体育」
「馬鹿。馬鹿馬鹿、お前ほんっとうに最高の馬鹿っ。テスト関係ないだろーっ!?」
 ノリ良くツッコミを開始するジュンが泣き真似をし始めた。 「うぅ、オレ、来年はお前と同じクラスになりたかったのにっ」と涙を拭うふりをする。 「お前っ、そんなに俺のこと好きだったのか!」とタカが叫んだ。 ジュンの向かい側に座る稔が頭を抱えていることに二人は気付かない。
「誰がそんなこと言ったかこの脳みそ筋肉馬鹿ーっ!」
「お前さっきから馬鹿馬鹿言いすぎだぞ!?」
「ホントのことを言ってなにが悪い! この野球馬鹿!」
「そりゃあお前もだーっ!」
 くだらない言い争いは終わりが見えそうになかった。小さな子供の口喧嘩と同レベルだ。 放っておけばいつまでも続きそうである。
「………ねぇ、ユウ。おれ、タカに愛想尽きそうだ」
「今更だな。俺は毎日そう思う」
 頬杖をついて二人を眺めるユウが深く息を吐き出した。
 彼の様子を見て稔は「……お疲れ様」と諦め顔で呟いた。 「ホントにな」と答えるユウの顔には疲労が色濃く映る。あのハイテンションを相手に 17年間も幼馴染みを続けてきた彼が落ち着いて見えるのは、今までの苦労があったおかげなのだろう。
 稔は勝手に自己解釈をしておくことにした。
「なー、それにしてもタケ達おそ…」
「―――たっだいまーっ! 今帰ったぜぃ!」
「タケ、ユウ達勉強してるんだから……って、もう止めてる」
「そうだよー、止めてるんですよー。主にタカのせいで」
 バンッ、と扉を開けて教室に入ってきたのは背の高い二人の少年だった。
「おかえりー。カズ達がいない間にタカが暴走しちゃったんだよ」
「ほーらオレが言った通りじゃん! こいつが静かに勉強なんか出来るわけないんだって、カズ」
 タケ、と呼ばれた少年は片手に白いコンビニのビニール袋を持ち、溌剌とした様子でケラケラと笑った。 後ろ手で扉を閉めるカズは「やっぱ無理かぁ」と、苦笑して壁に掛かった時計を見る。
「一時間も持たなかったな?」
「イエス、無理でしたぁ。奇跡は起きませんでした!」
 ひらひらと手を振ってジュンが答えた。
「ったく、やっぱおめーは部内一の馬鹿だよ。褒美にこれでも飲みやがれっ」
「ご褒美をあげる意味が分からないよタケ」
「やりぃ! 俺のいちごミルク! これ奢り?」
「倍返しが基本だろうが馬鹿野郎め。それか次の数学で満点取りやがれ」
「あぁ、そりゃあ真夏に雪が降る可能性よりも低いわ。というかゼロだろ。むしろマイナスだ」
 がさごそとビニール袋から取り出したパックのジュースをタカに渡す。 器用にキャッチした手で早速ストローを差すタカは部内きっての甘党である。
「テスト明けに練習試合が入ってるの、分かってる?」
「カズ、俺はやる時はやる男だぜ!」
「エースがいない練習試合かぁ……。マコが投げることになりそうだねー」
「うわぁん! なんてこと言うんだみーちゃん!」
 ずずっ、とストローでパックの中身を吸っていたタカが慌てて身を起こし涙声になった。 どうやらそれだけは嫌なようで口をぱくぱくと動かしている。動揺を隠さず「んなことねぇよなユウ!?」、 と向かい側で鞄の中を整理し始めたユウに訴えた。
 彼らの背番号は1番と2番。葉條館高校野球部の幼馴染みバッテリーである。
「お前が赤点を取ったら、俺はもう知らん」
「うおっ、ユウ冷たい!」
 いちごの甘ったるい匂いがする。ユウはどちらかというとあまり甘味類が得意ではない。 特にこの幼馴染みが好むいちごミルクの匂いは苦手だ。甘過ぎる匂いで気分が悪くなる。
 空いていた席に座ったタケとカズはビニール袋の中から数種類のお菓子を取り出し並べ始めた。 買出しに行った二人組は部内で比較的成績がいい。ユウもその中に入るのだが、 タカの暴走を食い止めることの出来る数少ない人物なだけに教室に残ったのだ。
 ジュンが机に並んだ菓子類を見て「すっげー、いろいろ買ってきたなー」と、感嘆の声を上げた。
「だって腹減ってんだもん」
「とか言って、新商品を買い漁っただけだろう。主にチョコ類」
「オレは新商品を見たら買いたくなる病なんだよ悪いかっ」
「あー、分かる分かる。よし、全部開けてみよ」
「なにこの、男だけでお菓子を囲む図…」
「稔、それ以上言うな。俺はまた頭が痛くなってきた」
「なんだユウ、ダイジョブかー? これ飲む?」
 すでに勉強をする気など失せたていた。このメンバーで勉強会など、到底無理な話なのだ。 これはもう各自に頑張ってもらう他ない。ユウがまとめるには、このメンバーはあまりにも個性が強過ぎた。
 その時、廊下からバタバタと駆ける足音が聞こえた。
「―――タカさんいますかぁっ!?」
 先程よりも大きな音と共に開いた扉が震え、そこには小柄な少年が肩で息をしながら立っていた。
「ありゃ、怜汰じゃん」
「ちわっス。わーっ、何やってんですかー!? お菓子パーティ? いいなぁ、おれも混ぜて……じゃなかった、タカさん!」
「うん? 俺になにか用? 俺今忙しいんだよな」
「どこがっすか!? 真澄ちゃんが職員室に来いって呼んでるんですっ」
「なんだ、お前パシリかよ」
「古文の補習に来ないタカさんが悪いんでしょ!?」
「わっ、馬鹿お前それを言うな……!」
 突然目の前から大きな掌が伸びてきた。タカが「ぎゃっ、」と奇声を上げると同時に、頭を強く握られる。 一体誰の手だ。頭を振って抵抗するが逆に握る力は強くなる。 キリキリと締め上げてくるのだ。前の席に座っていたのは誰だったか、タカは手足をばたつかせながら考える。
「――怜汰」
 地響きのように低いユウの声が小柄な後輩の名を呼んだ。
「はっ、はい!?」
「もう一度用件を教えてくれるか……?」
「ちょっと、ユウ? 頭が痛いんだけどなー?」
「えっとですね、タカさん、今日は古文の補習があったはずなんですよね。 真澄ちゃんに探して来いって頼まれたから、間違いないっす」
「そうか。……タカ、」
 指の隙間から覗く幼馴染みの目が泳いでいた。
「てめぇふざけてんじゃねぇぞーっ!?」
「ぎゃあああ、ごめんなさいィィィ……!」
 タカの暴走を食い止めることの出来る唯一の人物が、暴走をし始めた。 彼を止めることの出来る人間は部内に存在していない。 精々この二人のやり取りが終わるまで大人しくしている方が無難なのだ。誰しも面倒なことに首を突っ込みたくはない。
 すでに野球部名物とまで言われる幼馴染みバッテリーを他所に、他のメンバーは菓子を頬張ることにした。 すでに鉛筆を握る気はないに等しい様子である。
「……あーあ、始まった。怜汰、お菓子あげるからこっちおいでー」
「わーいっ、頂きます!」
 一方的な言い争いを聞き流しながら、彼らは後輩を巻き込みつつ再び雑談に花を咲かせ始めた。 これが葉條館高校野球部の何気ない日常である。