恋は、先に惚れた方が負けなのだと誰かが言っていた。
 だから私は、それは私自身に最も関係のないものだと思っていた。 ほんの少し前まで、心の底から信じ切っていた。私は絶対に負けないだろうし、 先に負けるのは相手の方だと自信を持って云い切れた。
 自分でも言うのも自意識過剰だろうが、私の顔立ちは悪くない。むしろ、すっと通った鼻筋に程よく細い顎のライン、 大きな瞳にふっくらとしたピンク色の唇は可愛らしく少女めいている。 体の線も、必要な丸みは十分に保ちながら一切の無駄を省いていて綺麗なものだと思う。 肌はきめ細かく、健康的な白さだ。亜麻色のロングヘアーは艶があり、滑らかな天使の輪が出来ている。
 私は、自分に自信があった。それは確かなことだったのだ。
「悪いけど、別れよう」
 ちっとも、これっぽっちも悪いと思っている素振りすら見せようとしない黒髪の彼は、 その薄い唇で唐突に別れの言葉を口にした。
「な、に……それ。新手の冗談?」
「いや。冗談でもなんでもなく、本気」
 小さな街に一軒だけある食堂で働く彼は、 こっそりと店を訪れた私の姿に目敏く気が付いた。私は、それを単純に嬉しいと感じた。 付き合っている男が自分の姿をきちんと見つけてくれるのだから、嬉しくないわけがないのだ。
 それが、どうしたことだろう。
 丁度良く仕事が終わり掛けていた彼は私を店の奥にある小部屋へ通し、席を勧めてくれた。 人目を忍んでの逢瀬に、私は期待した。何か特別な話でもあるのだろうか。デートのお誘いだろうか。 そんな取り留めのないことを頭の片隅で考えながら、私の胸は大いに高鳴っていた。 なのに、彼の口から零れ出たのは、別れ話だ。私の頭の中は真っ白に弾けた。
「わけ、わかんない。なんでそう唐突なの。そんな素振り見せなかったくせに」
「……悪い」
「ねぇ、どうして? 私、なにかした?」
 我ながら、陳腐な台詞だと思った。
 彼とは幼馴染みと呼べるほど親しい間柄ではなかった。しかし、小さな街では子供の数は少なく、 同世代の者はそれ以上に少ないという環境が自然と子供達の繋がりを強くした。 彼はそんな子供達の中で一番目立った存在だ。一番やんちゃで好奇心に溢れていて、 誰よりも友達思い。そんな彼を慕うのは男女関係なく、多くいたものだ。
 年端もいかない少年から、段々と精悍な青年に近付き始めた彼に私から思いを伝えた。柄でもないと自分で驚いた。
 彼の容姿は、前々から好みだと思っていた。癖のないしっかりとした深みのある黒髪に、 同じく強い意志を秘めた黒い瞳。すらりと高い長身は軟なものではなく、均整の取れた体つきをしている。 骨ばった大きな手も良いし、嫌みのない低めの声も耳に心地が良かった。
 私の問いに、彼は珍しく困ったように眉尻を下げ「いや、それは…」、などと言葉を濁す。
「言っとくけど! 私は理由も聞かずにはいそうですかって引き下がるような女じゃありませんからね!」
「ああ、うん………それは知ってる」
「…ならわけを聞かせなさいよ。一体何が、どうなって、別れるなんて話になるのよ」
 叫んだ後に、私はすぐさま後悔した。困ったような眉尻はそのままに、 彼は懐かしいものでも見るかのような目で小さな笑みを浮かべたのだ。その表情を見た瞬間、 彼が私という存在をすでに過去のものとして捉えていることに気付いた。
 悔しい。腹立たしい。体の一番底にある何かがぐらぐらと音を立て崩れていく。 それは、私が今まで生きてきた一八年間で初めて感じる別れだった。
 私は意地っ張りで気が強く、少々自信家だ。自分でも、おそらくそうなのだろうといった自覚は前々からあった。 しかし、黒髪の彼は意地っ張りな私のさらに上を行く頑固さの持ち主で一度これと決めたことに対しては一歩も引かない。 そんな彼が時折見せる笑った顔は、どことなく幼さが残っていて可愛らしさすら感じた。 私は、彼のそんなギャップも好ましく思っていた。
 そこでふと、気付く。
 遅過ぎると自分に呆れてしまった。今まで自覚がなかったなんて、情けなさを通り越して笑いさえ込み上げてくる。私は、端から彼に負け続けていたのだ。
「ちょっと待って。やっぱり、聞かない」
「は………?」
 気の抜けた声。切れ長の目は子供っぽく見開かれ、呆気に取られている。良い気味だった。
 よくある恋愛小説で、今の私と同じような立場に立たされた女はどうしていただろう。 覚えている限りでは男に別れの理由を問い、涙を流す場合が多かったように思う。 恋人に振られたという友人も、赤く腫れあがった目で私にそれを告げてきた。
 私はそんな彼女を見て、思ったのだ。
「聞こえなかったの? 理由、話さなくていいって言ったのよ。あんた耳が遠くなったんじゃない?」
「お前って本当に減らず口だよな」
「普段から口数の少ないあんたと比べたら、当然でしょ。喋らないと死んじゃうわ」
「……いいのか?」
「それ以上何か言ったら引っ叩くわよ」
 誰が、泣くものか。私を振るような男のために、誰が泣いてやるかと何度も何度も、思ったのだ。
「いいわよ、別れましょ。ただし、二度と口も利いちゃいけないなんて言わないわよね?  こんな小さな街よ、顔を合わせないってことはないでしょ」
「あぁ……それは、お前がそれでいいんなら」
「それじゃあ、前のようなお友達に戻るってことで。これでいいでしょう」
 一方的に押し切るように、早口で告げた私の提案を彼はあっさりと承諾した。 確かに気まずいまま別れ有耶無耶になるよりも、これからのことをはっきりとさせておく方がずっと良い。 頭は、それを理解している。しかし、感情はまた別物だった。
 すっと席を立つ。胸の奥からせり上がる重い溜息を吐き出して、私は「帰るわ」と小さく呟いた。 口数の少ない彼はこくりと頷き、私の言葉に応じた。
 最後まで可愛げのない女だと思われただろうか。意地っ張りで人一倍気が強い私は、 彼にとって可愛げのない女だったのだろうか。人に媚びるのは嫌いだ。だから、彼に甘えることも少なかった。 頑なに涙を拒むのが何よりの証拠だろう。私は、余計な意地が邪魔をして人に弱さを見せることも出来ないような女なのだ。
 それでも、泣かない。
 泣いてやるものかと自分自身に言い聞かせる。涙を流す暇があるのなら、私は自分を磨き直すために時間を使う。 今の私に一番似合うメイクを研究し、より良い美容法を探すために使うのだ。 女は、常に忙しい生き物。休んでいる暇などこれっぽちもありはしない。いつの日か私を振ったことを後悔させるためにも、 より良い女へ変わらなければならないのだ。負けっぱなしなんて、気に食わない。
「……あ、そうそう」
 ふいに浮かんだ小さな悪戯は、彼に対する腹いせだった。
「どうした?」
「言い忘れたことがあるのよ」
 にこりと微笑み、油断し切っている彼の胸倉を強引に掴む。驚いたように目を見開く彼は、 咄嗟のことに抵抗出来なかったのだろう。その長身は私のか細い腕でも容易く引き寄せることが出来た。
 手繰るように引き寄せ、彼の唇へ啄ばむようなキスを送る。
「じゃあね。今まで楽しかったわ、グルート」
 負け惜しみのような言葉を告げ颯爽と部屋を出た。 私の性格を理解している彼の微かな苦笑が耳に届いたが、私は無様にも振り返るような真似だけはしなかった。

 それから半月後。
 彼が単身で首都での生活を始めたという話を、私は人づてに聞いたのだった。



意地っ張りのラブソング