俺達はただ、夢中だった。
「なぁ、ユウ」
 夏休みのある日、連日のきつい練習の合間に訪れた数少ない休息の時間。 俺とタカはテレビ画面に映る甲子園の中継を食い入るように見つめていた。
 試合は、投手戦と言ってもいい流れになっていた。 両校共に塁へランナーは出しているものの、決して三塁を踏ませず回を進めていく。 打者に打たれようとも、食らいつくように白球を追い掛けアウトをもぎ取る。 緊迫した試合内容は五回裏を終えたところでどちらにも点数は無し。 貴重な一点を手に入れた側が勝利を掴んでいくような、そんな試合中継だった。
 球児にとって、甲子園は憧れそのものだ。
 あの場所に立ちたい。あの場所の感触を知りたい。白球を追い掛け、勝利の瞬間を感じたい。 まるで現実味もなく弾ける憧れは、俺の中にもしっかりと根付いていた。
「甲子園、いいよな」
 日に焼けたタカの横顔を見た。 俺と同じくテレビ画面に夢中になっていたその顔は、視線を寄こすことなく独り言のように呟いていた。
 手の届かない夢を見つめるその目は、ブラウン管のその奥を覗き込んでいる。 今の俺達にとって、甲子園の舞台など所詮夢のまた夢だ。 手が届かないからこそ憧れる、そんな存在だ。
「行ってみたい、よな……」
 あの夏の日、俺達はその夢を刻みつけるように小さな画面を見つめ続けていた。



 中学二年の、夏。三年が引退し新たなチームが少しずつ形を成してきた頃。 あれから俺達は四年分歳を取り、高校三年の夏へと差し掛かっていた。
 じめじめと湿気が煩わしい梅雨も明け、本格的な夏が始まる。 そしてこの夏が終われば俺達は部を引退し、それぞれの進路に向け遅いスタートを切ることになる。 受験のことを思うと今から気が重くて仕方がないが、今はそのことを頭の片隅へと押し遣っておく。
 高校生活最後の夏が来た。
 それが一体どのような意味を持つのか、部内の誰もが気付いている。 口に出さないだけで、全員が思い描いていること。最後の夏は、最後のチャンスだ。
「ユウ」
 グラウンドから響く声を背に部室のドアを開くと、そこにはぼろぼろのエナメルバッグをロッカーに押し込むタカの姿があった。
 すでに着替えを済ませているタカは「補習か?」、と悪戯めいた目で俺を見た。 後ろ手に扉を閉めながら「お前と一緒にするな」と応じ、俺はいつの代から使っているのかも分からない 木製の椅子に通学鞄と部員お揃いのエナメルバッグを置く。たったそれだけのことでぎしりと軋む椅子は俺達の代でその役目を終えそうだ。
「日直だったんだ。一応カズには遅れるって伝えといたぞ」
「ありゃ、偶然。俺も日直だった」
「昼休みに放送で呼び出し食らってたのは?」
「……課題提出するの忘れてました。さっき出してきました」
 タカはばつの悪い顔で視線を泳がせ、素直に答えた。 全校生徒の耳に届く校内放送で最も頻繁に名前が挙がっているはずのタカは、 それでも懲りた様子はなく毎回のように職員室へ呼び出されている。 こいつの学習能力はゼロに等しい。
 俺が溜息を吐くと、タカは誤魔化すようにくしゃりと笑った。 教師一同から憎めない笑顔と称されるその表情に毒気を抜かれ、肩を落とす。
 タカの性格はこれでもかというほど明るく、前向きだ。 調子に乗りやすいところがたまに傷だが、それも一つの愛嬌みたいなものだろう。 おまけにタカは根が素直で嘘が吐けない。 下手に嘘を口にすると、それがそのまま顔に出る。実に分かりやすいやつなのだ。 幼馴染みとして物心つく前から共に過ごしてきた俺はともかく、 クラスメートや部員達からも簡単に嘘を見抜かれてしまうほどだ。 最近では「俺は表情が豊かなだけなんだよ」、と開き直ってすらいる。実にタカらしい言い分だった。
「お前な、いい加減学習しろ」
「仕方ねぇだろ。うっかり忘れてたんだから」
 悪びれる風でもなく、けろりとした顔で言ってのけるタカにまたしても溜息が零れ出す。 近いうちに再び呼び出しを食らい、こってりと絞られる様が目に浮かぶようだ。 自業自得なのだから、俺は助けてやるつもりなどない。端から考えてもいない。
「なー、それより早く着替えろよ。もう練習始まってんぞ」
「うるさいな。お前こそ、着替え終わってんならさっさとグラウンド行けよ」
「ユウを待ってんだよ。いいだろ、来た時間だってあんま変わんねぇし」
「別に待つことないだろう。先に行ってろ」
 制服のボタンに指を掛け、手早くカッターシャツを脱ぐ。 その下に着ていた黒のTシャツも同じように脱ぎ捨て、適当にエナメルバッグの中へ詰め込む。 俺の後ろでタカが「やーん、ユウのエッチー」、とふざけたことを棒読みで呟いていたが、 相手にするのが面倒なため気にせず無視をした。
 バッグの中から薄汚れた上下のユニホームを引っ張り出し袖を通しす。 靴はボタンを留める最中に足元を辿りながら履き替えておいた。その間、タカは何か言いたげな顔をして、 しかし一言も口を開かず大人しく俺を待っていた。
 珍しい。微妙な顔付きでうずうずとしながら俺を待っているタカを見て、そう思う。
 タカは馬鹿が付くほど素直なやつだ。だから、言いたいことがあればなりふり構わず口にするし、後先など考えもない。 ひたすら真っ直ぐに、揺らがずに、直球だけを投げ込んでくる。それは昔から少しも変わらない。 幼馴染みとして共に過ごしてきた俺は、それを知っている。身に沁みるように理解している。
 一体どうしたのかと、思わず問いかけようとした俺は一旦口を開き掛け、思い止まった。 ぱっくりと開いたバッグの口に手を伸ばし、チャックを閉める。
「……ほら、終わったぞ。行くんだろ」
「ん? あぁ、」
 言いたいことがあるのなら、こいつは必ず口に出すはずだから。それならば、今すぐに聞き出す必要はないと思った。
 タカが手元のグローブを強く握り締め、立ち上がる。 使い古されたそれは所々色褪せているが、どんな代物よりもタカの手に馴染むようになっている。 柔らかく、それでいて強かな張りが出ているグローブはタカに必要不可欠のものだ。
「よっし、行くか」
「にしてもお前、本当に待つ必要なかったぞ」
「ユウしつこい。もういいだろ、その話は。あ、それよりタケが部活終わったらみんなで飯食いに行こうって。ユウも行くだろ?」
「そうだな、行く」
「まぁ、いつも通りファミレスだけどな。焼き肉定食食いてーなー」
 器用な指先で野球帽をくるりと回し、夕食に思いを馳せるタカの顔には先程の不自然さはない。
 俺の気のせいか、それとも単純に考え過ぎていただけなのか。どちらにせよいつものタカだ。 変に勘ぐるよりも普段通りに接しておいた方がいいのだろう。
 再び部室のドアノブを握り、扉を開ける。照り付ける日差しは強く、ちかちかと目に眩しい。 むっとした熱気が肌を撫でてきた。触れただけだというのに、じわりと汗が浮かんでくるようだ。 俺の背後で「暑いな……」、とタカが呟く。
「なぁ、ユウ。夏だ」
「馬鹿かお前は。当り前だろう」
 当然のことを、タカは嬉しそうに言う。弾んだ声色を隠すことなくそのままで、心の底から喜びを表している。 今さら何を言い出すのか。唐突な言葉に何事かと俺が背後を振り返ったその時、タカは不敵な笑顔で短く宣言した。
「――――甲子園、行くぞ」


夏色 君色