|
それは昔からの決まり事。
遥か遠い日々より密やかに伝えられてきた、鳥籠に飼われた者の在り方。 カナリアは人々のために歌う。 一日の始まりと終わりを告げ、新たに生まれた命と旅立つ魂のために美しく囀る。 しかし、カナリアは『誰か』のためには歌わない。 カナリアは人々を愛している。来る者も去る者さえも等しく愛し、街の住人全てを受け入れる。 けれどカナリアは『誰か』を愛することはなかった。 「―――それでいいのか?」 男はふいに湧き起こった疑問を投げ掛けずにはいられなかった。 否、ふいにではなく、前々から密かに抱いていた思いだ。抑制していたものは些細なきっかけで途端に溢れ出してしまう。 気だるげな青が格子窓の外を一瞬だけ覗き、逃げるように瞳を伏せた。 たったそれだけのことで言葉が零れてしまったのだ。 「…何が言いたい?」 「そのままの意味だ」 眩い金の髪に華奢な体。太陽を知らぬかのような白い肌。繊細な顔立ちの中に浮かぶ深い青の瞳。 カナリアは囀り同様、その姿までもが美しい。 革張りのソファに身を沈めるカナリアは伏せ目がちに言葉を紡ぎ、最後に呆れ混じりの溜息を吐いた。 青い目は男を捉えない。毛足の長い絨毯に視線を落したまま呼吸さえ潜めてその場に腰を据えている。 カナリアの横顔を見つめる男の口から堪えるような吐息が漏れた。 何をするわけでもなく、ぼんやりと座っているだけだというのにカナリアは美しかった。 窓から入り込む日差しが金糸を掠め、髪全体が淡い光に包まれる。 たったそれだけのことが完成された絵画のようで容易く踏み込めない神聖なものにすら見えた。 決して、触れることは許されない。 「意味を理解しようとすること自体が無意味だな」 「何故?」 「何をどう言われたところで現実は変わりようがないからだ」 覚えの悪い生徒に言い聞かせるような調子でカナリアがはっきりと言葉を紡ぐ。 溢れる言葉の一つ一つが心地良い響きを持ち、聞く者の心を掴んで放さない。それは男も例外ではなかった。 もっと。もっと、聞きたい。もっと欲しい。 街の者達はカナリアを求める。声を。姿を。カナリアの全てを。求め、愛している。 遠い昔から、それこそ当たり前のように。 だからこそ男は思う。カナリアも人間だ。街の者達のように誰かを愛することはないのだろうか。 たった一人の存在を求めることはないのだろうか、と。 「貴方は籠の鳥ではない。心も体も自由で、どこへでも飛んでいける。だというのに何故?」 「…よくもそんな言葉を口にできるよな」 空気が震えたように感じたのは、おそらくカナリアがその身を動かしたからだろう。 ソファに沈む細い体を捻りカナリアは男に向き直った。青い目は間違いなく男を捉え、互いに見つめ合う。 心臓が跳ね上がりそうで、男は息を殺してその青い眼差しを受け止める。 「困るのはお前達のくせに」 カナリアが笑った。 口元は艶やかな三日月のような弧を描き、青い瞳には隠しようのない嫌悪感を露わにして。 それは紛れもない嘲笑だった。 「俺が一人のために歌ったら、たった一人を愛したら。困るのはお前達の方じゃないか」 「……それは、」 「否定しないってことは、そういうことだ。…軽々しいことを口にするな。馬鹿らしいだろ」 「馬鹿らしくとも私の本心であることには違いない」 男の台詞はカナリアの存在が大きなこの街にとってひどく矛盾したものだった。 少なくとも、極めて少数の意見になるだろう。 カナリアの歌と、各々が等しく愛されているという実感。 それによって成り立つこの街は、何と歪なことか。異様なことだと頭では理解できる。 だが、そこに心が伴わない。世に生まれ出た瞬間からカナリアの存在を植えつけられたのだ。 否定できるわけがなかった。 名も知らぬ小鳥が格子窓の向こう側で愛らしい声を立てている。 誘われたように、青の視線は再び外を見上げここではない遠い地を見つめるかのごとく瞳を細めた。 「お前達は矛盾しているよ」 「それは、理解しているつもりだ」 男は思うのだ。 この美しいカナリアがたった一人を選び取る瞬間とは、一体どれほど素晴らしいのだろう。 気だるげな青が至極の喜びに輝く日は、いずれ訪れるのだろうか。それはおそらく、今以上に美しく気高い姿に違いない。 しかしこの街はカナリアを失えない。カナリアは生活の一部だ。 街の住人達にとってなくてはならないものだ。失うなど、あり得ない。 「まぁ、安心しろよ。俺は『誰か』を選ぶつもりはない」 カナリアが細い息を吐き出し、ぎしりとソファを軋ませる。 弛緩した体をゆったりと背凭れに預けた姿は糸を切られ身動きの取れない操り人形に酷似していた。 実際のところはカナリアを操る糸などないはずだが、男の目にはそうは映らない。 むしろ、操り糸よりも頑丈な何かで縛りつけている気になるのだ。 自分達の手でカナリアの足に鎖をかけ、羽ばたきを許さない。 『誰か』に出会う歌い鳥を思いながら、決して手放さない。――――笑えるくらいに酷い矛盾だった。 「俺はお前達のために歌うし、愛してもやる。今まで通りだ」 「カナリア…」 「あぁ、でも……そうだな。これだけは覚えておくといい」 青の瞳が再び伏せられる。気だるささえもが隠されたカナリアの顔からは表情が読めず、 男はあからさまに戸惑いを見せ小さく息を呑んだ。 何よりもカナリアの言葉に胸が騒ぐ。聞きたくないと本能が叫び、心が拒絶する。しかし、カナリアの言葉は止まない。 「俺はいつか、お前達が誰一人として気付かないうちにここから消えるよ」 カナリアの紡ぐ言葉で男の根底にある世界が大きく揺れた。全身に叩き付けられる衝撃に足元がふらつく。 「……やめてくれカナリア。それ以上は、」 「この街はいずれ俺を失う。カナリアの不在なんて、この街は経験したことがないよな。 …俺が消えればどうなる? 街は壊れるのかな?」 「違う、違うんだ私はただ…っ……」 「俺がお前の心の通りに生きようとしたら、全てが消えるんだよ。 俺自身も、この街もな。そしてお前の心に従わずとも間違いなくその日は訪れる。 …さっきも言ったろ? 俺は誰かを選ぶつもりはない、『誰』も選ばないんだ」 きつく耳を押さえてもカナリアの言葉を遮ることはできない。 直接脳に響くかのように、全ての音がはっきりと聞き取れてしまう。 男は苦しげに息を乱し怯えた目でソファの上の頼りない体から距離を取った。 「カナリアは歌も愛情も平等に与えた。ならば当然、終わりも平等に与えるものだ」 カナリアは目を開けない。男を見向きもしない。 瞳を閉ざし、それこそ滑らかに歌い上げるような調子で容赦のない言葉を男に浴びせる。 歌い鳥に身を寄せ生きる歪んだ在り方には対価が必要だったのだ。 その薄い肩に街の住人達の全てを背負わせるには、何かを支払わなければいけないのだ。 気付いていながら目を背け、しっかりと蓋をしたものに男は触れてしまった。気付かぬ振りはもう許されない。 一度開いた蓋は二度と元に戻らない。中身が溢れ、戻すことができなくなった。 『誰か』を選ばないカナリアと、この街で生きる住人達。縛られているのは一体どちらの方だ。 男には分からなかった。考えてしまうことが、恐ろしかった。 「お前達は拒否できない。受け取るほかに、道はないんだよ」 |