大地の汚染が進んだ結果、いつしか世界には異形と形容するしかない存在が蔓延るようになっていた。
 それは生物ではあったが、今までに確認されていたどの種にも当てはめることができない。 生物でありながら、生物の理論を越えた存在だったのだ。
 大小様々な大きさと、安定しない多種多様な外見。 鳴き声を聞いた者がいないため、学者達の間では声帯を備えていないのではないかと考えられている。 瞳はどの個体も濁った灰色をしていて三つ目や四つ目、あるいはそれ以上の数の眼球を持つものもあるという。
「良いかい、お前達。よくお聞き」
 神楽が生まれるよりも遥かに遠い時代で語られていた物語の中には、 そういった異形達が必ず存在していたそうだ。 村で一番の物知りである長老が寝物語として静かに話してくれたことを神楽は覚えている。
 大人達が話す物語には必ず恐ろしい存在がいて、悪い行いをした子供は食べられてしまうのだと脅すらしい。 良い子でいなさいと言っても聞かない子供達に対する戒めの意味に使っていたのだと、 長老は懐かしそうに目を細めて神楽に話してくれた。 ただでさえ小さい長老の瞳が糸のように細くなる様はひどく優しげで、神楽はその表情が好きだった。
 今ではそういった意味合いを持たせた物語が語られることはない。 なぜなら、それが脅しではなく事実になり得るからだ。
「もし魔物と出会ってしまったら、決して目を合わせてはいけないよ」
 魔物は人を襲う。
 襲われた人間はその場から忽然と姿を消し、帰ってくることはない。 何処かへ連れ去られ喰われてしまうのか、あるいは文字通り存在そのものを消されてしまうのか。 それは、襲われた人間以外が知ることはできないものだ。
 だから大人は、たとえ物語であっても人を喰う存在があることを口にできない。 誰もが現実に起こり得ることなのだと理解し、肌で感じている。
「魔物のことは、知っているね?」
「うん。とっても怖くて危ないから、絶対に村から出ちゃ駄目って母さんに言われてるよ」
「長老さま、どうして目を合わせてはいけないの?」
「怖くて危ないからでしょ?」
「あぁ、そうだよ。……けどね、それだけじゃあないんだ」
 一番近くで長老の言葉に耳を傾けていた神楽の頭に皺だらけの手が添えられた。 枯れ枝のように細い長老の手は今にも折れてしまいそうで神楽はいつも不安になる。 けれど、その手がとても温かいと知っているから撫でてもらえることは素直に嬉しいと思う。
 ぽっ、と灯る蝋燭の火のようなささやかな温もりを胸の奥に感じ神楽は微かに頬を緩めた。
 ふわふわとした気持ちで長老の顔を見上げる。 そこには穏やかな眼差しがあると期待したのに、長老の瞳はひどく悲しげで辛いものに見えた。
「魔物の目の奥を見てしまったら、お前達は知ってしまうんだよ。魔物を生み出したものの本質を、ね」
「本質? ……長老さま、どういう意味?」
「魔物を魔物にしてしまった原因、とでも言えば分かりやすいかねぇ」
 遠い目をして淡々と言葉を紡ぐ長老が心配で、神楽は追い縋るような声色で尋ねた。
 今目の前にいる長老は、神楽の知らない長老だ。知らない人がよく分からない話をしている。 唐突に輪郭があやふやになってしまったような、 馴染めない感覚に大きな不安が顔を覗かせざわざわと胸が騒ぐ。他の子供達も神楽と同じように、 あるいは呆けたような顔で長老を見つめるなどそれぞれが異なる形で戸惑いを浮かべていた。
 神楽は長老が普段から纏う色褪せた外套をぎゅっと掴み、少し高い位置にある小さな瞳を見つめた。 神楽の視線を感じてか、長老の細い腕が再び伸びて宥めるように指先で髪の上を撫でる。
「…いいかい。絶対に忘れてはいけないよ。魔物の瞳の奥にはね、」
 するり、と。
 落ちるように離れていった長老の指先を神楽の視線が追う。 支えを失ったように垂れた腕は、まるで強風に折られた老木のようだった。
 長老の目はとても遠くを見ている。 村の外に広がる山々や、ゆっくりと綿雲を流していく水色の空よりも、ずっと遠い場所。 神楽の知らない世界を一人で覗いている。
「―――人間だった頃の罪が隠れているんだよ。だから、絶対に目を合わせてはいけない」
 でないとお前達も引き摺りこまれてしまうよ、と囁く長老の言葉の意味は幼い神楽にはよく分からない。 けれど、覚えておかなければいつかきっと大変なことになる。 首筋にひやりと冷たいものを感じ、神楽の体は小さく震えた。
 今この瞬間、魔物と対峙している人間はいるだろうか。 もしその人が魔物の瞳を覗き込んでしまったら――――世界から魔物の数が減ることはないのだろう。

魔物の向こう側


「魔物は人間のなれの果てさ。魔物に襲われた人間は喰われるでもなく、存在を消されるでもなく。 ただ引き摺りこまれて同じものに変わってしまうんだよ」